仏性があるとは、どんなことなのか
仏教では山川草木悉有仏性と説かれているそうですが、私たちに本当に仏性などあるのでしょうか。自分の心を見れば見るほどあるようには思えません。仏性とはどんなものでしょうか。
まことにもっともな疑問だと思います。自己の姿を真面目に見れば見るほど、仏性などあるとは思えません。あなたは真面目に自分を見つめていられる方だからでしょう。
事実、大心海化現(※)の菩薩といわれている善導大師でさえ、
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す
“現に、私は極悪最下の者、果てしない過去から苦しみつづけて、未来永遠に救われることのないことが、ハッキリ知らされた”
とおっしゃって、仏になる性など微塵もないと告白されています。
親鸞聖人も、
一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し(『教行信証』信巻)
“すべての人間は、果てしない昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごとたわごとのみで、真実の心は、まったくない”
と、人間には善のカケラもないことを明らかにされています。私たちに仏になる性なんかあるはずがありません。
では経典の、「悉有仏性」(すべてに仏性あり)はウソなのかといいますと、決して偽りではありません。
仏性というと、誰もが何か金の玉のようなピカピカ光っているものを考えがちですが、それは間違いです。
仏性とは、私たちに仏性あらしむる仏智のはたらきをいうのですから、「悉有仏性」とは「悉有は仏性なり」ということです。
このように普遍的に存在しています仏性から、私たちに作用してくだされるのです。
犬には仏性はありませんが、仏性は犬にもはたらいているということです。
ちょうど、ラジオは、そのままではなんの発声もしませんが、電波を受けるとすぐに放送を始めます。テレビも、そのままでは映像を表しませんが、電波を受けるとたちまち受像するようなものです。
だからといって、ラジオやテレビそのものが声を持ち、映像を持っていたとはいえないのと同じです。
五つの不思議を説く中に
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓に名づけたり(高僧和讃)
“世の中に不思議なことが五つある。中でも釈尊は、「仏法不思議」以上の不思議はないと説かれている。
「仏法不思議」とは、弥陀の救いの不思議をいわれたものである”
と親鸞聖人はおっしゃっています。
仏に成る縁なき私たちを救う、十方遍く照らす阿弥陀仏の不思議な光明であり、本願力をいうのです。
※)大心海化現…極楽浄土から、仏さまが姿を変えて現れたこと。