死は暗黒と消滅のみか
仏教は後生の一大事と、その解決を教えるものであるといわれますが、近代合理主義の教育を受けた我々は、とても認めることはできません。死のもたらすものは暗黒と消滅のみと思っていますが間違いでしょうか。
仏語に、
(原文)
「独生独死独去独来」
(意訳)
「人間はみな、生まれたときも独り、死んでゆくときも独り、来たときも去るときも、独りぼっちである」
というお言葉があります。
次の世界に旅立つとなったら金も名誉も財産も一切お伴してくれません。誰でも親や兄弟姉妹、親戚、友人などが死にますと泣きます。「もう二度と会うことはないのだなぁ、話すこともないのだなぁ」という永遠の別離の哀しみもありますが、「自分もいつかは帰ってこれない遠い旅に一人で行かねばならないのだなぁ」という涙でもありましょう。しかもその時だけです。
自分だけで自己の死と対面しようとはしません。病気が怖い。老いが怖い。失敗が怖い。地震が怖い。核戦争、公害、食糧危機、人口問題、エネルギー危機といっても、その根底には死があるからでしょう。
今日、ガンが一番恐ろしい病と思われています。死に直結するようなガンにかかった人々は、医師の一挙手一投足、一言半句に一喜一憂し、ある時は死を予感し、ある時は治るのではないかと希望をいだくと言われます。
作家の瀬田栄之助氏は、その遺著、『いのちある日に』のあとがきに、日がな夜がな寝ても覚めても死の恐怖感にさいなまれているガン患者の精神の内奥を、「かからにゃ分からぬ地獄」といい、凄惨にして絶望的な日々の勝利なき戦いの苦しみと悩みを訴えています。そして、「死を前にしては、ニーチェもキルケゴールも役に立たなかった」と記しています。
人間が生きるためには必ず何かの希望が必要です。だとすれば近く死を迎える患者にとって、どんな希望が残されるといえましょう。
残り少ない日時に希望をもたせるものがあるでしょうか。
死がもたらすものは、暗黒と消滅だけだとする近代合理主義は、絶望的な患者に生き甲斐、死に甲斐、希望、勇気を与えることができるでしょうか。ニーチェもキルケゴールも何の役にも立たないのは当然のことでしょう。
これは未来の無い患者のみのことではないでしよう。誰にでも死は確実に訪れます。 それは万人が直面しなければならない大問題です。誰もこの問題から逃げきることはできません。この不安の影につきまとわれている人間に、真の幸福が味わえるはずがありません。
独りで死の恐怖に怯え死ぬ人が、過去も未来も永遠に繰り返されていくのです。
現代人の知性は、死後の無を肯定しながら感情は死の不安に耐え切れず、死後の世界を肯定しようと、その矛盾に苦しんでいるのです。
「死は休息である」とか「永眠である」とか言ってはいますが、「死んだらどうなるのか」ハッキリしないからです。
この死後を往生一定と明らかにするのが、仏教の目的であり阿弥陀仏の救いなのです。