親鸞聖人と絶対の幸福
親鸞聖人は、人生の目的は絶対の幸福だと言われますが、絶対の幸福とはどんな幸福をいうのでしょうか。
仏教では、幸福といわれるものを二つに分けます。相対的幸福といわるべきものと、絶対の幸福といわれるものです。
相対的幸福といいますのは、一時的な喜びや満足をいい、続かない、やがては必ず、悲しみや苦しみに転化する幸福をいうのです。
たとえば、好きな人と結婚できた喜びとか、望んでいたマイホームが新築できた満足とか、日々、私たちが求めている生き甲斐や喜びといわれるものです。
このような喜びや満足は、決して永続するものではありません。やがては必ず滅び去る幸福です。どんなに素晴らしい人と結婚しても、相手がいつ病に倒れるやら、死ぬやら分かりません。変心して不仲になり、破鏡の憂き目にあい、骨肉相食む争いをしなければならないかも分かりません。
世間に、夫を亡くして苦しんでいる人、妻を失って悲嘆している人、子供に裏切られて激怒している人など、あふれているのを見ても明らかなことです。
また、一生、汗と膏で築きあげた家屋が、一夜のうちに灰になり悲泣している人もあり、昨日まで一家和楽の家庭も、今日は交通事故や災害で、地獄の悲惨を味わっている人もあります。これらの幸福は、今日あって明日なき無常の幸福です。常に壊れはしないかという不安がつきまとっていますから、本質的にいっても、真の幸福とはいえないのです。
たとえ大禍なく続いたとしても、死に直面すれば、総くずれになること必定です。しかも私たちは、死の運命から逃れることはできませんから、このような幸福で、心からの安心や満足が得られるはずがないのです。
死の前に立たされた時、金や名誉や地位や財産が、なんの喜びになり満足を与えてくれるでしょう。たとえ求まったとしても、真の満足も安心も得られない、これらの幸福を求めて、今日もあくせく苦しみ悶えているのです。
親鸞聖人は、これは、真実の幸福、絶対の幸福があるということも、その絶対の幸福は阿弥陀仏の本願によって、誰もがなれることも知らないからであると教えられています。
そして、この絶対の幸福こそ人生の目的であると、90年の生涯、弥陀の救い一つを教えていかれたのが親鸞聖人でした。
では、絶対の幸福とは何でしょう。
親鸞聖人は、絶対の幸福を「無碍の一道」(※)とおっしゃっています。
そして、その世界を、こう教えておられます。
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり(『歎異抄』第7章)
“弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神々も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなるからだ。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である”
大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず(『教行信証』行巻)
“阿弥陀仏の造られた、大悲の願船に乗って見る人生は、千波万波きらめく明るい広い海ではないか。順風に帆をあげる航海のように、なんと生きるとは素晴らしいことなのか”
これらのお言葉は、絶対の幸福を喝破なされたものです。
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)
“弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩は少しも変わらないけれども、心は極楽で遊んでいるようだ”
とおっしゃっているのも、絶対の幸福になった一大宣言であります。
そんな絶対の幸福なんてあるものかという人は、まだ阿弥陀仏の救いの素晴らしさを知らないだけなのだと親鸞聖人は教えられています。
※)無碍の一道…一切がさわりにならない幸せ。絶対の幸福。