親鸞聖人と三世因果
仏教は三世因果の教えといわれますが、どんなことでしょうか。
親鸞聖人の強調された現在の救いと、どんな関係があるのか教えてください。
お聞きの通り仏教の根本教理は、実に「三世因果」の教えにあります。これがよく理解されなければ仏教は絶対に分かりません。
まず「三世」といいますのは、過去世、現在世、未来世のことです。
「過去世」といいますのは、私たちが生まれる以前のすべての過去をいいます。
「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでのことです。
「未来世」とは、永遠の死後をいいます。
私たち一人一人に、この悠久の過去と永遠の未来があると仏教では教えられます。 過去・現在・未来の三世を貫く生命があると説かれています。
「過去世や未来世なんか、あるか」という人もあるでしょう。しかし、私たちが生まれたということは、まぎれもない「結果」です。こんな結果が、どうして生じたのでしょう。
私は、なぜ13億人の中国ではなく、1億2千万の日本に生まれたのか。江戸時代に生まれた人、明治に生まれた人、平成に生まれる人もいます。大正、昭和に生まれ無理やり戦争にかり出され、虫ケラのように殺された若者もたくさんあります。平和な世に生を受けていたら、そんな青年たちの人生は大きく変わっていたでしょう。
地球上、69億の人はあっても、生まれた時も所も、容姿も才能も、同じ人は一人もいません。生涯を左右するこれらのことが、一体、何によって決まったのでしょうか。
これについて釈尊は、こう説かれています。
汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ
“過去に、どんな種まきしてきたかを知りたければ、現在の結果を見なさい。
未来、どんな結果が現れるかを知りたければ、現在の種まきを見なさい、分かるであろう”
これは、現在を見れば過去も未来も、みな分かる、悠久の過去と永遠の未来を包含しているのが現在であるからだと、教えられたものです。
この釈尊の教えによれば、一人一人の生まれた結果が異なるのは、69億の各人各様に生まれる前の、各人各様、異なった原因があったからに違いありません。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の厳粛な因果の道理に従って、私たちの過去世の行為が現在世の私たちの境界を生み出したのです。
当然、「過去世」があるように、私たちには「未来世」があります。もし「未来世」がないとすれば、因果の道理に例外を認めねばならなくなるでしょう。
たとえば、ある人が二人殺して死刑になったとします。二人殺した罪(因)が一回の死刑(果)で償われるとするならば、10人殺した者は5回死刑にならなければなりません。そんなことはできませんから、もし未来世がなければ、二人殺したら、あとは何人殺そうが死刑という結果は同じということになります。
原因が変われば結果が変わるのが、因果の道理です。日給1万円の仕事をすれば、100日働けば100万円もらわなければ誰も承知しないでしょう。それが、1日働いても1万円、100日働いても1万円だと言われては働く人がないのと同じです。
原因が変わっても結果は同じだという主張は、三世十方を貫く「因果の道理」を知らない妄言です。現在世の行為の結果が、たとえ現在世で現れなくても、必ず「未来世」に現れますから、「三世因果」は三世十方を貫く真理であると教えられているのです。
この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、いかに「現在」が大切かが知らされます。
先に述べましたように「過去世」とは、とりつめれば去年であり、昨日であり、前の1時間であり、吐いた息が過去になります。
「現在世」も、とりつめれば今年であり、今日であり、今の1時間であり、今の一息が現在の当体となります。
「未来世」も、これも叩けば来年となり、明日となり、1時間先となり、吸う息が未来となります。
ですから、仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にあると教えられているのです。
念々のうちに、三世がおさまっているのです。
ゆえに、ただ今の一念を徹見すれば、曠劫の間、流転してきた自己も明らかになるし、未来の一大事も知らされることになります。
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す
“現在、私は極悪最下の者である。果てしない過去から苦しみつづけ、未来、永遠に救われることのない者とハッキリ知ることができた”
とおっしゃっている善導大師のお言葉でも明らかでしょう。
だから、現在の救いがなくして未来の救いはないのですから、現生(現在)不退、平生(現在)業成、不体失(現在)往生と、親鸞聖人が、現在の救いを強調されたのは当然でありましょう。
※1)善導大師…約1300年前、中国の方。親鸞聖人が最も尊敬されている一人である。
※2)不退…絶対の幸福。
※3)業成…人生究極の目的が完成すること。