仏教はアキラメ主義ではないのか
私の両親はよく寺参りしますが、私たちによくアキラメが大事だと言います。
何もかもアキラメていくところには、進歩も向上もありません。仏教がアキラメの宗教なら聞く気にはなれません。
アキラメルという言葉は、確かに仏教から出た言葉ですが、仏教でいう意味と今日使われている意味とは、全く違っていることを、まず知って頂きたいと思います。
仏教では、これを諦観といわれています。
諦観とは、諦は、インドの原語「サットヤ」で真理、明理ということです。観は、ミルということですから、諦観というのは「アキラカニ、真理ヲミル」ということなのです。
この「アキラカニミル」の仏語が、次第に変化して「アキラメル」になってしまったのです。ところが、言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、その意味までが変わってしまったのです。
世間では、アキラメルといえば、なにか、いい加減に断念したり、ごまかしてゆくことのように思われています。
財布を落として困っている人に「いい加減にアキラメロよ」などと言いますのも、「いい加減に、忘れてしまえ」という意味に使われています。
これではあなたの言われるように、アキラメ主義となり、進歩も発展も努力も失わせる考え方になってしまいます。
行灯でアキラメておれば、今日の電気や蛍光灯は発明されなかったでしょうし、ラジオでアキラメておれば、テレビは造られなかったでしょう。
現在の自己でアキラメてしまえば、その人の進歩向上はなくなるでしょう。確かに、このようなアキラメは私たちの向上心を殺ぐものといえるかもしれません。
しかし、仏教で教えるアキラカニミルの諦観は全く異なります。大宇宙の真理である因果の道理を、アキラカニミヨと教えているのですから、無限の進歩向上・発展努力を促すものです。
一切の学問は、因果の道理をアキラカニミテ今日、進歩発展してきたものです。先の例えで言いますと、財布を落とした原因は何かということをよくよくアキラカニミテ、原因がハッキリしたら二度とそのような原因で、そんな結果を招かないように努力することになりますから、無限に進歩向上するのです。
仏教は大変誤解されていますが、アキラメルも、その中の一つです。仏教は、決して無気力なアキラメ主義ではなく、反対に、とても意欲的な向上努力主義であることを知ってください。