親鸞聖人はなぜ、人間に生まれたことを喜べと言われたのか
人間に生まれたことを喜べと教えられますが、喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえあります。こんなことではいけないと思いながらも喜ぶことができません。親鸞聖人は人間に生まれたことを、なぜ、有り難いとおっしゃったのでしょうか。
自殺するのは、同じように生きる喜びのない人たちでしょう。しかし、ほとんどの人は真面目に考えれば、同じ気持ちではないでしょうか。
おっしゃる通り仏教では、人間に生まれたことは、大変有り難いことだから喜ばなければならないと教えられています。
『雑阿含経』の中には、有名な盲亀浮木の譬喩が説かれています。
ある時、釈尊が
「たとえば、大海の底に一匹の盲亀がいて、百年に一度、海上に浮かび上がるのだ。その海には、一本の浮木が流れていて、浮木の真ん中に、一つの穴がある。盲亀が百年に一度浮かび上がった際に、その浮木の穴へ、ちょうど、頭を突っ込むことがあるだろうか」
と尋ねられた。
阿難という弟子が、「そんなことは、毛頭、考えられません」と答えると釈尊は、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが、何億兆年よりも永い間には絶対にないとは、誰も言い切れないであろう。人間に生まれるということは、この例えよりもありえない有り難いことなのだよ」
とおっしゃっています。
私たちは、日常〝有り難う〟と言いますが、有ることが稀である、ということから出た言葉なのです。
『涅槃経』には、
人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。三途に堕つるものは、十方の土のごとし
“人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、三悪道(地獄・餓鬼・畜生の苦しみの世界)に堕ちる者は、大宇宙の砂の数ほど多い”
と説かれています。
このような、受け難い人身を受けたということは、人間に生まれなければできない大事な目的があるということなのです。私たちは、その重大な使命を果たすために人間に生まれてきたのです。
釈尊は、それについて、こう説かれています。
人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん(釈尊)
“生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くことができた。何がなんでも今生で救われねば、いずれの生で救われようか。永遠のチャンスは今しかないのだ”
「今生で、この身を度する」(いま救われる)とは、どういうことでしょうか。
それは阿弥陀仏の本願を聞信(※)し、平生に絶対の幸福になることだと、親鸞聖人は教えられています。こんなチャンスは、幾億兆年にもないことであるとも言われています。
聖人のおっしゃる通り、弥陀の本願を聞き開き、絶対の幸福になって初めて、人間に生まれた本当の有り難さが分かるのです。
仏法を聞かない限り、人間に生まれた本当の喜びは分かるものではありません。人間に生まれた生命の歓喜を知るまで、仏法を聞いてください。
※聞信…「まことだった」と聞いて知らされること。