なぜ仏教は人の嫌がる臨終や死のことを多く語るのか
私は率直にいって仏教は好きになれません。我々は明るい生をこそ求めているのに仏教は暗い死が多く語られ陰湿だからです。なぜ仏教は人の嫌がる臨終や死を重視するのでしょうか。
「人は棺を覆うて名定まる」というのは立身出世主義の儒教の教うるところですが、仏教では名前のことは問題にしませんが、臨終に於ける精神の安定感を喧しく教えます。
他の宗教よりも特に無常観が強いのは、この為です。
死に対して如何なる安定感を持つべきかは人類共通の悩みですが、近代人はそこに不安と絶望を見出すのみです。
試みに有名近代人の臨終の様子を調べてみましても、明るいものはほとんど見あたりません。
自然主義文学の闘将だった田山花袋氏が60歳で死んでゆく時、詩人島崎藤村が臨終の覚悟を尋ねた時、「独りで往くのかと思うと淋しい」と弱い声で答えています。
夏目漱石氏は大正5年12月9日、胃かいようで50歳で死にましたが、最後に「ああ苦しい。今死んでは困る」と、つぶやいたのは有名な話です。
「金色夜叉」の尾崎紅葉氏も、明治36年10月胃ガンで死にました。病院長から胃ガンと宣告された時の、彼の「断腸の記」は悲痛な記録です。彼の華やかな文学も死の淵に臨んだ時には微塵の明るさもありません。
徹底した無神論者だったはずの正宗白鳥氏は、臨終に「アーメン」といって周囲の人々を驚かせました。
熱心なクリスチャンだった国木田独歩氏は、「祈れません」と泣きながら死んで逝きました。
66歳で亡くなった平林たい子さんは、「一生懸命生きますから、何とか生かしてください」と、最後に主治医に頼んで死んでいます。
故大森義太郎氏は「もし自分がガンになったらハッキリ告げてほしい」と、頼んで医者に胃ガンを宣告されました。
「まァいいさ。とつぶやいたものの帰宅して考えたら実にイヤな気がした。心の隅の何処かで、まだガンでない場合を考えている。ガンだとしても奇跡的に進行が止まる場合も考えている。この考えにつかまって死に面して平気なような顔をしているだけの話さ」と、親友の向坂逸郎氏に手紙を送っています。
「お母さんへ。山の死を美しいとするのは一種の感傷でした。生還すればもう山をやめて心配はかけません」
「再び母へ。ありきたりのことだが先に行くのを許してください。お父さん、心配かけて申し訳ありません」
これは冬山で遭難したある大学生の遺書です。
人間死に直面すれば演技する余裕も、意地も我慢もなく本音を吐くものです。
現代人の多くは仏教は陰湿だといって死を避けますが、避け得られるものではありません。
だれしも病気になりたくありませんが、それでもかかります。かかると放っておくわけにはいきませんから医者の手当てを受けます。
なぜ医者にかかるのか、内心死を怖れているからです。病気と寿命は別だといわれてもやはり気にかかります。
物価がこんなに上がっては、安月給では一家が乾せあがると心配致します。これもまた無意識の底に死への不安があるからなのです。
人生の悲劇は、おそかれ早かれ死なねばならないところにあります。
この死への不安があればこそ、真っ正面から死と取り組まねばならないのです。
ここに死を越える永遠の生命とは何か、の真実の仏法への入門があるのです。
仏法は常に臨終の覚悟で聞法せよと無常観が厳しいのは、その為であることを知ってください。