親鸞聖人の教えと先祖のたたり
世間では何か不幸や災難がおきると、それは先祖のたたりだとか、先祖の供養をしないからだとか言う人がありますが、本当でしょうか。親鸞聖人は、どう教えられているのでしょうか。
不幸や災難を先祖のたたりだとか、供養をしないからだとかいうのは、全くばかげた外道の迷信です。
この世の一切のことは、因縁果の法則で運行されているのが実相ですから、不幸や災難に遭うのも、その人その人の、過去に蒔いた業因によって招いた結果にほかならぬと、釈尊は教えておられます。
無論、親鸞聖人も、全く同じように教導されています。
まかぬタネは、絶対に生えないのです。自分に現れた結果は、すべて自分のまいたタネからなのです。自因自果に、絶対、狂いはありません。
だから、逆境に遭えば、過去にまいた恐ろしい悪業を知らされて懺悔し、二度と再び、そんな悪因をまかぬように努力し、順境に恵まれれば、どんな悪果を受けても当然な私なのに、こんなに恵まれるのは、如来聖人のご加護と感謝して生きるのが、正法(仏法)を信ずる者の生活態度です。
次に、先祖の供養についてのことですが、古来、人情の美風でもあり仏教でも大切なことだと説かれていますが、本当の先祖の供養の仕方を知らないために、多くの迷信の温床になっているのは甚だ悲しい実状です。
立派な墓を造ったり、盛大な葬儀や法事を勤めたりすることが、なによりの先祖の供養だと思っている人の、いかに多いことでしょう。
しかし、私たちが本気で先祖の供養をしようとする時は、今までの習慣にとらわれず、まず考えなければならないことは、先祖の喜ぶことは何かということです。先祖の供養の仕方はそれによって決まるのです。
なぜなら、先祖の心に反する言動に、いくら大金を投じ、いかに苦労をしても、先祖の供養にはならないからです。
最も先祖が、私たちに望んでいることを知ろうとすれば、亡き先祖に聞かなくても、私たちが、子供や子孫に一番、何を願っているかを考えれば明らかなことです。
それは、正しく生きよ、幸福になれよ、ということに違いはないでしょう。されば、私たちの先祖も、私たちが、正しく幸福に生きることを最も喜ぶに違いありません。
ならば、私たちが真実の仏法を求め、弥陀より金剛の信心(※)を獲得して絶対の幸福になり、たくましく生きることこそが、先祖の最も喜ぶ最高の供養となるのです。
ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり(『歎異抄』第5章)
“はやく、弥陀の本願を計ろう自力の心を捨てて、浄土で仏のさとりを開けば、六道・四生の迷いの世界で、どんな苦しみに沈んでいようとも、仏の方便力で、縁の深い人々から救うことができよう”
この親鸞聖人のお言葉は、私たちの先祖に対する真の追善供養のあり方をお示しになっていることを知らなければなりません。
※)金剛の信心…絶対に変わらない信心。