仏教の方便とは、どんなことか
なんでも方便だという人がありますが、仏教で方便とは、どんなことをいうのでしょうか。方便は必要なものでしょうか。
大変、大事なお尋ねだと思います。
方便という言葉の原語は「ウパーヤ」といい、目的に「近づく」という意味です。また目的を果たすための手段をいわれます。
たとえば、母親が子供を連れて瀬戸物店へ買い物に行く。大バーゲンでしこたま買いこんだ母親が荷物を重そうに持っています。
瀬戸物は量の割りに重いものです。ついてきた小学一年の男の子が、自信ありそうに誇らしげに言いました。
「お母さん、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ。昨日も相撲で一番だったんだ」と細い腕をまくって見せます。とても子供の持てる代物でないことは、万々承知の母親です。
「こんな重い物、あんたなんかに持てますか! 落としたらどうするの! 割れてしまったらおしまいよ」
頭から叱りつけては、「いくらでも持てるのに、僕に持たせてくれなかった」と、子供は家へ着くまで承服せずグズルのです。
賢い親はそんな時、優しく笑って、こう言うでしょう。
「そうお、坊や、あんた、そんなに強くなったの。お母さん嬉しいわ! それじゃ持ってちょうだい」
子供の力に合わぬ重荷ということは、百も千も承知の上で一度持たせてみるのです。落としたら大変だから、親は密かに荷物の下に手を回しています。
自分の力を認められて持った子供は、小さいながらも男の意地も我慢もあります。見事に持って母を驚かそうの得意も働きます。
真っ赤な顔して渾身の力を絞りますが、やがて力尽き荷物を落としそうになり悲鳴をあげる。
「お母さん、僕、やっぱりダメだ。早く持って!! 落とすよ、早く、早く!」
自分の力では、とてもかなわぬ重荷と体で知った子供は、心から親に荷物を任すのです。後で、荷物を支えてくれていた母を知り、子供は余計に感動するのです。
仏教では、自惚れ強い私たちに自力無功を知らせ、絶対の幸福、無碍の一道の他力まで誘導するのに、阿弥陀仏や師主知識は種々に善巧方便なされていると説かれています。
蓮如上人仰せられ候、「方便を悪しということは有る間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」由、仰せられ候と云々(御一代記聞書)
“蓮如上人が仰せになった。
「方便など要らないなどとは、言語道断、言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。
弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってこそ、私たちは弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである」”
弥陀、釈尊、善知識方の種々のご方便がなければ、私たちは絶対に真実の信心を獲て無碍の一道に出ることはできないとおっしゃっています。
私たちを真実に導き入れるには、絶対に必要不可欠なのが、仏教の方便といわれるものです。
※1)無碍の一道…一切がさわりにならない幸せ。絶対の幸福。
※2)善知識…仏教を正しく教える人