仏教の「因果の道理」と弥陀の救い
「更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、
如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
これが、親鸞聖人の常の仰せであった。如来の教法とは、釈迦如来の説かれた教えであるから、親鸞聖人のみ教えは、仏教以外にないことが明らかである。
その仏教の根幹は「因果の道理」である。釈迦の七千余巻の一切経を貫く教えが「因果の道理」であるから、「因果の道理」をよく理解しなければ仏教は分からないし、親鸞聖人のみ教えも毛頭分からないのである。
「因果」とは「原因」と「結果」。どんなことにも、必ず原因があり、原因なしに起きる結果は、万に一つ、億に一つもないと教えられるのが仏教である。しかもこれには絶対に例外を認めない。
原因が分からないことはあっても、「ない」のではない。どんな小さな結果でも、それ相当の原因が「必ずある」と教えるのが仏教なのである。
次に「道理」とは、「三世十方を貫くもの」をいう。過去世・現在世・未来世の三世を貫き、東西南北上下四維の十方を遍くもの、すなわち、いつでもどこでも変わらないものだけを、仏教では道理という。
正確にいえば、「因縁果の道理」である。すべての「果」は、「因」だけで起きるのではなく、「因」と和合する「縁」が必要だと説かれているからだ。
特に、仏教が因果の道理で明らかにしているのは、私たちが最も知りたい、人の運命の原因と結果の関係である。それを釈尊は、
「善因善果、悪因悪果、自因自果」
と説かれ、幸福も不幸も、自分の運命のすべては、自分の行為(業)が生み出したものであると教えられている。これにも絶対、例外はないと仏教では説かれる。
私たちの生命は、悠久の過去から永遠の未来に向かって流れている。その過去世(生まれる以前のすべての過去)・現在世(この世に生を受けてから死ぬまで)・未来世(永遠の死後)の三世を貫くのが、峻厳なる仏教の因果の道理なのである。
かくて釈尊が、
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
(過去に、どんな種まきしてきたかを知りたければ、現在の結果を見なさい。未来、どんな結果が現れるかを知りたければ、現在の種まきを見なさい、分かるであろう)
と説かれているように、悠久の過去と永遠の未来を包含しているのが現在であるから、現在ただ今の一念を徹見すれば、己の過去の行為も明らかになるし、未来の一大事も知らされる。
ゆえに、弥陀の一念の救いにあわれた親鸞聖人は、余すところなく自己の罪悪を照らされて、
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
〝縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ〟
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
〝いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである〟
と『歎異抄』に告白なされているのである。
「罪悪深重の者を、平生の一念に救い摂る」と誓われた弥陀の本願が、三世因果の道理を根幹とする仏教の真髄であることは、いよいよ明らかであろう。