「往生を信じて」の誤解を正す
親鸞聖人のお言葉が記された『歎異抄』は、日本一読まれる仏教書である。中でも第1章が最も重要だが、常識で読むと正反対の意味になり、無事では済まないことになる。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『歎異抄』第1章)
“弥陀の誓願不思議に助けて頂いて、往生できると明らかになり、念仏称えようと思い立ったその時、摂取不捨の幸福にして頂くのである”
「弥陀の誓願」とは阿弥陀仏の本願のこと。どんな人も必ず往生できる身に救うと誓われたお約束である。
ところが次に「往生をば遂ぐるなりと信じて」とあるから、死んだら極楽へ往けると信じることだと思うだろう。だがそれは誤りである。
なぜなら、信じる人には、必ず疑いがあるからだ。例えば「父は男だと信じている」という子供はいない。一緒に風呂に入って知っているからだ。火傷をした人が、「火は熱いと信じている」とも言わない。熱いとハッキリしているからである。
確かに世間では、信じる人は、疑っていないというのが常識だろう。しかし、疑う余地がないことは「信じる」とは言わないで、「知っている」という。信じる人には、実は疑心があるからである。
すべての人が死ぬことは間違いないが、死んだらどうなるかは、弥陀に救われるまで分からない。だから浄土へ往けるのだろうなと疑いを抑えつけて信じるしかないのだ。しかし、弥陀の誓願に助けて頂いたその時、浄土へ往生できるとハッキリするのだ。
この弥陀の誓願を親鸞聖人は、船に例えて「大悲の願船」といわれる。この船は浄土へ往っている船だから、乗せられると同時に、往生できるとハッキリするのである。これを親鸞聖人は「信知」とも「明知」ともいわれている。
本願に微塵の疑いもなくなるのが弥陀の救いだから、往生できると疑わないようにいくら信じても助からないのである。聖人の「往生をば遂ぐるなりと信じて」はツユチリの疑いなくハッキリしたことだから、現代語でいえば「往生できると明らかになり」なのである。
阿弥陀仏の本願に救われた世界ばかり書かれている『歎異抄』は、大悲の願船に乗らなければ分からないから、世間の常識では絶対に読めない。
大悲の願船に乗せていただくには、専ら本願を聞く一つ。だから、真剣に聞かせていただかねばならないのである。