若不生者の誓い
去年から今年になったといっても、時計の針が12月31日の夜11時59分59秒から、カチンと動いて0時になれば、それで今年である。同様に、今生から後生といっても一瞬だ。一息つがざれば、この世からそのまま次の生へ突っ込んでいく。
されば後生は遠い未来ではない。一瞬のちは、後生かもしれぬ。吸う息吐く息が、後生と触れ合っているのである。
さて、死ねばどうなるか。この生死の一大事こそ、まさしく全人類の問題だ。
ところが、おかしなことに、老後のことまでは、誰もが考え、対処し、年金がもらえないのではないかと大騒ぎするのに、老後の次にやってくる死となると、誰も考えようとしない。火事に遭わない人がほとんどだが、それでも不安だから、皆火災保険には入るのに、100パーセント確実な後生となると、何の準備もしようとしない。
考えてもどうしようもない、とあきらめているのか。確実な未来を考えないのは、本当はおかしなことなのだが、こと死に関しては、そこで思考が停止しても、おかしいとも思わない。仕方がないで、済まそうとする。自分をだまし、自らだまされている。
だが、幾ら考えまいとしても、避けては通れない。必ずぶち当たることは明らかで、しかもどうにもならず、刻々と近づく苛立ちと重苦しい不安は、とても直視に耐えられない。人生の根底に、この根本矛盾があるかぎり、何をしても、何を得ても、喜びも満足も続かず、ごまかしでしかなくなるのは当然だろう。
“どうせ死ぬのに、なぜ生きる”金満家やノーベル賞に輝きながらも自殺するのは、この苦しみからではなかろうか。
死んだらどうなるかハッキリしない心、後生不安な心を、親鸞聖人は「無明の闇」と言われ、人生苦悩の根元と断定されている。そして、「苦しみの根元・無明の闇を一念で破り、必ず絶対の幸福(信楽)にしてみせる」と誓われたのが、本師本仏の阿弥陀如来なのだと仰せである。
大宇宙最高の仏であり、十方諸仏の指導者であられる阿弥陀如来は、その本願に、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。もし苦悩の根元の無明の闇をぶち破り、晴れて大満足の「信楽(しんぎょう)」の身に生まれさせることができなければ、この弥陀は、正覚(仏の命)を捨てましょう、とのお約束なのだ。
本師本仏が命を懸けた「若不生者の誓い」があるから、この世で、「信楽」と一念慶喜する時が、必ずある。同時に、いつ死んでも浄土往生間違いない身にハッキリ定まるのである。
若不生者の誓いゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ(親鸞聖人)
※親鸞会館では,このような親鸞聖人のお言葉について、毎月、高森顕徹先生のご法話が開かれています。