心も言葉も絶えた幸福
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(高僧和讃)
「どんな人でも、弥陀の本願を信ずれば、心も言葉も絶えた無上の幸せが、その人の身に満ちあふれるのである」
阿弥陀仏が四十八の本願を建てられた中で、本心を誓われた18番目の願を「選択本願」と言われる。18願は、全ての人を「信楽」(絶対の幸福)にしてみせるという誓いである。その選択本願に救われたならば、「不可称不可説不可思議の功徳」と一体になると、親鸞聖人は仰っている。
不可称不可説不可思議の功徳、言うことも説くことも、想像もできない功徳とは、「南無阿弥陀仏」の名号の大功徳である。名号には、私たちを絶対の幸福にする、無上甚深の功徳がある。そんな「南無阿弥陀仏」が完成したのは、弥陀が17願に、「大宇宙の無量の諸仏が、一仏も残らず褒めたたえる名号を創ってみせる。できなければ、命を捨てる」と誓われているからである。その約束どおりの名号(南無阿弥陀仏)ができ上がったことを、釈迦は「十七願成就文」で、こう教示されている。
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」
大宇宙にガンジス河の砂の数ほどおられる諸仏方が異口同音に、弥陀の創られた名号(無量寿仏の威神功徳)には、心も言葉も絶えた不可思議の大功徳があると絶賛されている。
70億の人間が例外なく褒める物でさえ、地球には存在しないし、考えることもできないだろう。まして大宇宙の仏さますべてが褒めたたえる十方世界最第一の至宝は、とても想像もできないし、説けるものでもない。
そんな名号を弥陀が創られた目的はただ一つ、18願で我々に与えて、「信楽」(絶対の幸福)にするためなのである。十方衆生を信楽に救う18願こそが、弥陀の究極の目的なのだ。
その18願(選択本願)を「信ずれば」と冒頭のご和讃で親鸞聖人が仰ったのは、聞即信の一念で名号を頂いたことであり、これを「仏凡一体」という。「一体」とは、ちょうど火のついた炭は、火のままが炭、炭のままが火となるように、分けることができなくなったことである。
名号(仏心)と私の心(凡心)が一体になれば、南無阿弥陀仏の不可思議の大功徳は、焼けることも、流されることも、盗まれることもない。最高無上の喜びが、常に私の身に満つるのである。
私たちが日々求めている幸せで、地震や津波、火災に消失しないものが、何かあるだろうか。いつどうなるか分からないようなもので、どうして真の安心満足が得られるだろうか。
不可称不可説不可思議の大功徳を頂いて、どんな災害にも微動だにしない幸福になることこそ人生の目的だと、親鸞聖人は明示されているのである。
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり
(御文章五帖)
“「南無阿弥陀仏」は、わずかに六字だからそんなに広大な力があるとは、誰も思えないだろうが、この南無阿弥陀仏の六字の中には、私たちを無上の幸せにする絶大な働きがあるのである。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである”