「煩悩の喜び」と「弥陀の救い」
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
(『歎異抄』九章)
『歎異抄』でも、三章と並んで特に有名な九章は、聖人と唯円との対話が記されている。踊躍歓喜の心が無く、早く浄土へ往きたいとも思わないのは、どうしてでしょうか。率直な問いに、「唯円、おまえもか。親鸞も同じだ」と、虚心坦懐に答えられている。
のど自慢で鐘が三つ鳴った時の、あの喜びようはどうか。サッカーワールドカップの熱狂といい、甲子園優勝の感激ぶりといい、まさに跳び跳ねて「踊躍歓喜」している。
弥陀の救いを、そんな「煩悩の喜び」と同レベルでしか想像できない私たちは、絶対の幸福に救い摂られ念仏する身になれば、天に踊り地に躍る歓喜の心があって当然と思う。
だが聖人は、「喜ぶ心はさらにない」と告白され、弥陀の救いは「煩悩の喜び」とは全く異質であることを浮き彫りにされる。百八の煩悩の中でも、特に私たちを煩わせ悩ませる「三大煩悩」の、筆頭が「欲」である。
飲んだり食べたり褒められたり、儲かって「欲」が満たされると、喜びが起きる。しかし、そこには常に不安が付きまとう。華やかな芸能界といえど、栄枯盛衰は世の習い、大衆に飽きられはしないか戦々恐々、人気の上下に一喜一憂しなければならない。
「花の命は短くて」バブルと消えゆく、はかない喜びではないか。そんな相対的な、続かぬ「煩悩の喜び」しか知らない煩悩具足の凡夫に、弥陀の絶対の救いが推し量れるはずがない。
弥陀に救われた人は、いつ死んでも間違いなく浄土へ往ける「往生一定」の身になる。一日たてば一日だけ、一夜明ければ一夜だけ、近づくところは弥陀の浄土である。
好きな人と三日後に楽しい温泉ツアーに行けるとなったら、早くその日が来ないかと待ち遠しい。まして極楽に近づくとなれば、こんな娑婆にとどまるより、急いで浄土往生したいと思って当然だろう。
だが聖人は、早く浄土へ参りたい心も全く無いと懺悔されている。煩悩しか分からない、煩悩百パーセントの存在である我々の想像や推測を、聖人は真正面から破壊しておられる。
肉体の病が治ってさえうれしいのに、極楽一定の大安心に救われても喜ばぬ、痺れ切った者が自分とは、とても認められない。
だが聖人は、“喜ばぬ者が助けられた”大歓喜を、「広大難思の慶心」と仰り、『教行信証』の始めと終わりに「慶ばしきかな」と叫ばれ、踊躍歓喜されているのだ。
懺悔と歓喜に生かされる他力信心を獲得するまで、真剣に聞法させていただこう。