死ねば誰でも極楽なのか
「速入寂静無為楽
必以信心為能入」(正信偈)
“速やかに寂静無為の楽に入ることは、
必ず信心を以て能入となす”
世界の光と尊敬され、人気テレビ番組でも、「歴史上の人物ベストワン」と紹介された親鸞聖人だが、その教えとなると、あきれるほど誤解曲解されている。
その最も大きな誤解の一つが、「親鸞聖人は、死んだら誰でも極楽浄土に往生できると教えられた」というものである。今日これは、まるで常識のように言われ、「善人も悪人も、みんな死んだら仏さまだ」というのが、日本人全体の死生観にまでなってしまっている。しかし、これは仏教でもなければ、親鸞聖人の教えでもない。
有名な『正信偈』に、冒頭の一節がある。
「寂静無為の楽」とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことだから、弥陀の浄土に生まれるには、必ず信心が要りますよ、と断言されている。
誰でも彼でも死んだら極楽に往って、仏になれるのではない。JRでも飛行機でも、切符がなければ、乗って目的地に到着できないように、信心がなければ絶対に浄土へは往けませんよ、ということである。
しかも、この信心とは、世間一般の宗教で言う、自分の心で仏や神を信ずる、というような信心とは、まるっきり違う。
「弥陀如来廻向の真実信心を
阿耨菩提(弥陀同体のさとり)の因とすべしとなり」
(尊号真像銘文)
“弥陀から賜る真実の信心が、仏のさとりを得る因である”
と聖人が明記されているように、本師本仏の阿弥陀如来から、直接賜る他力の大信心(絶対の幸福)のことである。
これを蓮如上人は『御文章』に、
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、更に疑なし」
(5帖目4通)
「他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑もなし」
(2帖目14通)
しかし、蓮如上人は同じく『御文章』に、「この信心を獲得せずば、極楽には往生せず」とも教えられているとおり、信心獲得しなければ、後生は一大事である。
だからこそ、「存命のうちに皆々信心決定あれかし」「一日も片時も急いで信心決定せよ」と仰るのである。