「捨自帰他」が聖人の教えの命
「捨自」とは、「自力を捨てよ」ということである。この「自力」のある間は、古今東西のすべての人に真の幸福はない。70年前の敗戦から、日本はわずか20年で復興を成し遂げ、昭和39年には東京オリンピックを機に、時速200キロの弾丸列車、新幹線を開通させた。
東京、大阪の二大都市が短時間で結ばれ、ビジネスもレジャーも様変わりしたが、それで「人間に生まれてよかった」という歓喜が、得られたであろうか。
かつては近所に1台だった白黒テレビや電話が、今やカラーテレビが各部屋に1台、携帯電話は一人2台になった。だが自殺者は年間、3万人を超え、小学生まで苦悩に折れ、命を絶っている。
日本でも世界でも、これだけ物が豊かになったのに、人生の苦悩が少しも減らないのは、すべての人に共通して苦しませるものがあるからだ。それこそ、親鸞聖人が一生涯、捨てよと教え続けられた「自力の心」である。
「自力の心」とは、阿弥陀仏の本願を疑っている心をいう。「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」という弥陀のお約束を疑って、「本当に阿弥陀さまはいらっしゃるのか」「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」「そんな幸せに、私がなれるのだろうか」「どうしたらなれるのだろうか」と計らっている心である。
この自力が廃った一念に、“いつ死んでも極楽浄土に往けるに間違いなし”と「往生一定」(必ず浄土に往けるとハッキリすること)に救われる。
「捨自帰他」の「帰他」とは、「他力に帰する」ことで、弥陀のお力(他力)で、往生一定に救われる(帰する)ことをいう。「他力」とは仏教から出た言葉であり、「阿弥陀仏のお力」のみをいう。世間でいうような「他人の力」のことではない。他力に救われると同時に、自力が廃り、「人間に生まれたのは、これ一つのためだった」の大満足が獲られるのである。
されば「自力の心を捨てて、阿弥陀仏に帰命せよ」が、親鸞聖人の教えの命だ。我々の生きる目的は、果てしない過去から迷わせた自力を捨てて、弥陀に救われること一つである。では、どうすれば自力が廃るのか。「仏法は聴聞に極まる」と教えられるとおり、自力から他力に帰するまでは聴聞の一本道である。
有縁の人と、一座でも多く聞法に身を沈めよう。仏法を聞くための、尊厳なる命なのである。一刻も無駄にしてはならない。