聞くだけで助ける「大悲の願海」
「大悲」とは、阿弥陀仏の大慈悲のことである。慈悲とは、苦しみ悩んでいる人を、とても見捨てておけない、幸せにしてやりたいという心と力をいう。
人間の慈悲は、小慈悲といい、弥陀の大慈悲とは、三つの違いがある。
人間の慈悲は、幸せにしてやりたい、という相手が限られている。妻や夫、親子、兄弟、親戚や友人など、自分の身近な人にだけで、縁のない人に対しては、そんな心は起きてこない。ところが阿弥陀仏の大慈悲は、十方衆生(すべての人)に平等に注がれている。弥陀の救いは、すべての人が対象なのである。
また、人間の慈悲は続かない。この世で最も純粋で、まことの慈悲に近いといわれる母親の子供に対する慈悲でさえも、何十年もすれば、薄らいだり、変質してしまう。だが、弥陀の大慈悲は、永久に変わらないのである。
三つ目に、人間の慈悲は盲目である。ゆえに、幸せにしてやろうと思ってしたことが、逆に不幸な結果をもたらすことが、ままある。溺愛し、子供をダメにする親の盲愛がまさにそうだが、先が見通せないから、わが子を苦しめる結果になるのである。阿弥陀仏の慈悲は、末を見通す智慧に裏づけられているから、結果が逆になることは絶対にない。必ず幸せにする力がある。
十方諸仏(大宇宙の無数の仏方)の王であり、本師本仏(諸仏の師。無上の仏)の阿弥陀仏は、この広大な慈悲によって、海のような願いを起こされた。これが有名な、阿弥陀仏の本願である。
仏教を説かれた釈迦は、自分の師匠である阿弥陀仏の本願、すなわち「大悲の願海」一つを生涯、教えていかれたのである。
それは、いかなる願いなのか。
「どんな人も、聞くだけで、必ず絶対の幸福に助ける」という誓願である。「どんな人も」とは、十方衆生のこと。人種も民族も肌の色も関係なく、すべての人を平等に、「絶対の幸福に救う」と約束なされている。
絶対の幸福とは、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜である。「人間に生まれたのは、これ一つ」という大満足が獲られるのである。しかも阿弥陀仏は、「若不生者不取正覚」と本願にあるように、仏の命である正覚(仏のさとり)を懸けて、「必ず助ける」と誓われているから、絶対に間違いないのである。
では、どうすれば絶対の幸福に救われるのか。「聞くだけで」と誓われている。
ゆえに親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。人間とは、どんなものか。それを阿弥陀仏は、どのように助けると誓われているのか。この「仏願の生起本末」を聞くのである。
そして、「阿弥陀仏の本願、まことであった」と知らされた一念、絶対の幸福に救い摂られるのだ。
決してキリのない道ではない。一念の決勝点に向かって、ひたすらに聞法しよう。