苦悩の根元は疑情一つ
「生死輪転の家に還来することは、決するに、疑情をもって所止となす」
(正信偈)
古今東西の全人類が最も知りたい「苦悩の根元」を道破された、親鸞聖人のお言葉である。
「生死輪転」とは、車の輪が際限なく転がるように、同じ所を限りなく回って苦しみ続ける様をいう。ついこの間、年が明けたと思ったら、もう半年が過ぎている。残す半年もアッという間に去るだろう。
去年はサッカー、今年は北陸新幹線、来年はオリンピックという話題の違いこそあれ、結局、人生は食て寝て起きての繰り返しではなかろうか。代わり映えのしないマラソンを70周、80周と続けた末に、力尽きて棺桶に入る。その実相を一休は、「人生は タライよりタライに移る 五十年」と露出した。
毎日、同じことの繰り返しでは、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜など、あるはずがなかろう。「人生は苦なり」の釈迦の金言は、今日も何ら色あせない。芥川龍之介は「人生は地獄よりも地獄的」と絶望し、夏目漱石は、「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」と嘆いている。
科学技術で生活は便利になったが、それで幸福になれるのではない。人生苦の本質は少しも変わらない。
家を離れて生きられないように、死ぬまで苦しみから離れ切れないことを、「生死輪転の家」と例えられ、そんな苦悩充満の迷界に生死生死を無限に繰り返していることを、「還来」と言われているのである。
この終わりなき苦しみの、元凶は何か。それは「決するに、疑情をもって所止(原因)となす」。
疑情一つと断言されている。聖人が「苦悩の根元は、これ一つ」と断定される「疑情」とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」である。大宇宙の仏方の師である阿弥陀仏は、「どんな人をも必ず絶対の幸福(往生一定)に救う」と誓われている。
その本願(お約束)を疑っている心だけを「疑情」といい、それは人や物を疑う心とは本質的に異なる。
例えば電話で振り込みを頼まれた時に、詐欺でないかと疑ったり、特売品の宝石を「本物だろうか」と疑う心は、煩悩の一つであり、死ぬまでなくならない。そんな疑心がなくなって、何でも信じていたら、とても生きてはいけないだろう。
それに対し疑情は、弥陀の誓願どおり絶対の幸福(往生一定)に救い摂られた一念(何兆分の1秒より、もっと短い時間)で晴れ、金輪際なくなる。この疑情こそ、過去幾億兆の生死を苦に染めた元凶だから、それを晴らすのは「多生の目的」なのである。
この大目的を人界の露命で果たし、未来永遠の幸福を獲得することが、まさに仏法を聞く目的である。