親鸞聖人の知恩・感恩・報恩
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
冒頭で、「親鸞は阿弥陀如来に救われた、親鸞は弥陀に助けられた」と『正信偈』に繰り返されているのは、多生にも値えぬ阿弥陀仏の救いに値えた大歓喜である。
何度も叫ばずにおれない、歓喜無量の幸福に生かされたのは、どうしてか。原因無しに起きる結果は、億に一つもないと仏教では説かれる。
原因を明らかに知られた親鸞聖人が、熱火の法悦と感謝を述べられたのが、かの「恩徳讃」である。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
「阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝え給うた恩師の厚恩は、身を粉に、骨砕きても済みませぬ。微塵の報謝もできぬわが身に、ただ泣かされるばかりである」
親鸞聖人ほど命の限り粉骨砕身、仏恩師恩の報謝に徹し抜かれた方はおられない。仏教では、人の評価は恩を知り、恩を感じ、恩に報いる心の強度で決まるといわれる。親鸞聖人が今日「世界の光」と尊崇されるのは、聖人の教えが人類の光ということだが、恩徳讃そのものの生涯からでもあろう。
「恩徳讃」では、永遠の幸福に生かされた「因」に、「大慈悲の阿弥陀如来」の洪恩と、「師主知識」の厚恩の二つがあげられている。
「師主知識」とは、弥陀の本願を正しく伝えて下さった、印度・中国・日本の七人の善知識方のことである。それらの七高僧を『正信偈』では「印度西天の論家」(印度の龍樹・天親菩薩)、「中夏日域の高僧」(中国、日本の曇鸞・道綽・善導・源信・法然)と仰っている。
現代は蛇口をひねれば水が出て当然と思われているが、水道が完備する前は、井戸に水を汲みにいかなければならなかった。便利な水道を使えるのは、何のおかげか。その源は貯水池であり、ここが干あがったら一滴の水も出ないのだ。
たとえ貯水池が満水でも、家まで水道管が引かれていなかったら、水は使えない。途中で管が切れたり、穴があいていたらどうなるだろう。水道管の恩恵に気づくのではなかろうか。
仏教は釈尊が印度で説かれてから、中国を経て日本に伝えられた。七高僧の誰一人欠けても親鸞、弥陀に救われることはできなかったのだと、『正信偈』には七高僧の遺徳を讃嘆されている。
万劫にも聞き難い仏法を聞かせて頂けるのは、どんな因縁があってのことか。当たり前と思っていては、仏法は聞けない。
「恩」という字は、「因」を知る「心」と書く。親鸞聖人のごとき知恩報徳は叶わずとも、近づこうと努力するのが真の親鸞学徒である。