魂の真の理解者
「両親から『勉強しろ』と言われてうっとうしく感じた」
15歳の女の子なら、誰でも言いそうなセリフだが、それが父親殺害の動機となると、なぜっ?と誰もが首をひねるだろう。
埼玉県川口市、46歳男性が、深夜長女に包丁で刺殺された事件は、痛ましいというより、あまりに不可解である。
「明るくて、かわいくて、優しくて、本当にいい子」と友人が語る少女のどこに、こんな狂気が隠れていたのか。何もかも嫌になった、どうにでもなれ、という捨て鉢だったのか。
最も安心できる自宅の寝室で、
娘の刃に命尽きる父親の胸中は、想像も及ばぬ。
親子でさえ、互いの心を覗き見ることすらできないのだ。
『王舎城の悲劇』のアニメで、ヒロイン・韋提希夫人が、夫ビンバシャラ王を何度もなじる。
「あなたなんかに私のこの気持ち、分かるもんですか」
「私がこんなに苦しんでいるのに、あなた、どうしてそんなに平気でいられるのよ!」
夫婦でも、相手の苦しみをすべて理解するのは無理だろう。
「どうして分かってくれないの」
とは言うが、そんな自分は、誰かの苦しみを分かってあげられるというのだろうか。
「独生独死独去独来」 (釈尊)
生まれてくるのも独りなら、死ぬのも独り。来た時も独りなら、去る時も独り。
親がいる、兄弟がいる、恋人がいるといっても、肉体の連れであっても魂の連れではない。何でも言える仲とはいうが、言えることまでしか言わないのは、お互い様だろう。
人生は、始めから終わりまで、孤独な旅路なのである。
では、自分だけでも本当に、自分のことが分かっているのか。「汝自身を知れ」と古代ギリシャの哲人が喝破するように、何よりも分からないのが自分自身ではなかろうか。
人は皆、心の奥底に厳重に鍵のかかった秘密の箱を持っている。中身は知らず知ろうともせず、ただ悩み苦しみ悶えている。
自分にすら分からぬ自分を、完全に誰かに分かってもらいたいとは、土台無茶な話だが、それでも我々は、真の魂の理解者を必死に探し求めて生きている。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」 (歎異抄)
量り知れぬ悪業を持った己のすべてを理解し、 "我にまかせよ、そのまま救う"と誓われたのは、大宇宙広しといえども、阿弥陀仏ただ一仏であったのだ。
親鸞聖人の告白である。