遍照と摂取の如来広大の恩徳
すべての人は、幸福を求めて生きている。科学や医学を発達させるのも、利便と長寿が幸せと信じているからである。確かに科学や医学、政治や経済の努力で、物は豊かになった。だが、それで幸福になれただろうか。日本史上、最も成功した秀吉も、臨終には「露とおち露と消えにし我が身かな。難波のことも夢のまた夢」と告白している。この世の幸福は皆、露と消えるものであり、そんなはかない喜びでは、真の満足は得られない。
全人類が求めているのは、絶対に変わらぬ、永遠の幸福である。この絶対の幸福になって「人生究極の目的」を果たすために、科学や医学などの「手段」があるのである。
万人の熱願に応え、本師本仏(師の仏)の阿弥陀仏が「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」と誓われたお約束が、阿弥陀仏の本願である。
この弥陀の誓願どおり、絶対の幸福に救われたことを、「信心決定」とか「信心獲得」という。一日も片時も急いで「信心決定せよ」「信心獲得するまで聞き抜け」。これ以外、善知識のお勧めはない。
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
(聖人一流章)
親鸞聖人、90年の教えは「信心一つ」と蓮如上人は断言されている。この「信心」は、「信心決定」「信心獲得」のことである。そして蓮如上人は、信心決定してからの念仏は、絶対の幸福に救ってくだされた弥陀如来のご恩に報いるお礼であることを、
「その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり」
(信心決定してからの念仏は、阿弥陀如来が、私を必ず浄土へ往ける身に救ってくだされたことへの、お礼の念仏と心得なさい)
と説示されている。
他の『御文章』にも、
「ただ寝ても起きても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、彼の弥陀如来の仏恩を報ずべきなり」
(2帖目14通)
など、報謝(お礼)の念仏のお勧めは、枚挙にいとまがない。
だが、ここで「弥陀如来の仏恩」と言われているのは、絶対の幸福に救われたご恩だけではないことを、銘記しなければならない。
「仏法は聴聞に極まる」と教えられるように、弥陀の救いは聞く一つである。ところが、朝から晩まで欲に引き回され、仏法を聞こうという気などサラサラ持ち合わせていないのが我々の実態だ。そんな真実のカケラもない者に、なぜ聞く気が起きたのか。それは、何としても信心決定まで進ませようと、十方衆生(すべての人)を誘引してくださる、弥陀の強いご念力の賜物である。そのお力を「遍照の光明」という。
遍照の光明は、すべての人に注がれている弥陀の大慈悲であり、その照育(お育て)によってのみ、聴聞の一本道を進ませていただけるのである。
そして、一念で絶対の幸福に救い摂られたのが、「摂取の光明」に遇った時である。この光明にガチッと摂め取られた人は、間違いなく極楽浄土へ往ける「往生一定」に生かされる。
往生一定(絶対の幸福)に救い摂ってくださる「摂取の光明」も、そこまで導いてくださる「遍照の光明」も、全て弥陀の本願のお力だから、自分の力は微塵も入らない。
「絶対他力」といわれるゆえんである。
このように弥陀如来の広大な恩徳には、遍照と摂取の二つあるが、遍照のお育てなくして、摂取の光明には絶対、遇えないのだから、両者に大小はない。
蓮如上人が「弥陀如来の仏恩を報ずべきなり」と仰る念仏には、遍照光明に対するお礼が含まれるのは当然である。だから救われる前も、信仰が進めば念仏を称えずにおれなくなる。それなのに「念仏はお礼だから、救われる前は称える必要はなかろう」と思ったり、果ては「称えないほうがよかろう」などと誤解しているのは、雨山にこうむる遍照のご恩を知らないからであろう。
如来大悲の恩徳に感泣し、御恩報謝の念仏を称える身になるまで、真剣な聞法に身を沈めよう。