弥陀の救いと信疑決判
軽井沢の国道からツアーバスが転落、乗員乗客41人中、15人が死亡した。乗客の多くは、雪山でスキーを楽しもうと誘い合った大学生たちである。
目が覚めたら白銀のゲレンデと信じて、夢見心地の乗車であったろう。ところが深夜にバスが大揺れし、「やばい」と誰かが叫んだ直後、車体はガードレールを突き破って斜面に転落。
多くの若い男女が、突如として命を奪われたのである。
アップル社の会長として、天才的経営者と謳われたアメリカのスティーブ・ジョブズの最後の言葉が、心に刺さる。
「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他人の目には、私の人生は成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、仕事を除けば、喜び少ない人生だった。
人生の終わりには、積み上げてきた富など、単なる事実でしかない。私がずっとプライドを持っていたこと、名誉や富は、迫る死を目の前にして色あせ、何も意味をなさなくなっている」
病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出された。闇の中で、彼は生命維持装置の緑色のライトが点滅するのを見つめ、機械的な音だけが耳に聞こえた。
「今、やっと理解したことがある。人生において十分やっていける富を得た後は、富とは関係のない他のことを追い求めたほうが良い。もっと大切な、何か他のことだ」
刻々と近づく死を凝視した彼が、初めて理解したのは、このことであった。
求めるべき「もっと大切な何か」とは。それこそ、死を目前にしても色あせることなき人生の目的に違いない。
多くの人々は、臨終にぶち当たって初めて、この一大事に気づく。
親鸞聖人の教えを学ぶ者(親鸞学徒)は、平生にこれを知り、阿弥陀仏の不可思議の願力によって、この一大事を解決していただくのである。
大宇宙最尊の阿弥陀仏は、苦しみ絶えぬ人生の難度海に溺れもだえている私たちを哀れに思われ、「捨てておけぬ。何としても助けてやりたい」の大慈悲心を起こされた。
その大慈悲心から五劫の思惟(気の遠くなる長期間の熟慮)を巡らして、「どんな人も、必ず絶対の幸福に救う」という無上の誓願(約束)を建立なされたのである。
ここで「どんな人も」とは、古今東西の全人類のことであるが、阿弥陀仏は、我々人間をどんなものと見てとられて、かかる誓いを建てられたのだろうか。
『歎異抄』一章に、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」
とあるように、煩悩が激しく燃え盛る、極めて罪の重い極悪人を助けるための本願なのである。しかし、いかに尊い阿弥陀仏の大慈悲心であっても、罪悪深重、善のカケラもない我々には、信ずる心も念ずる心もない。
そこで、そんな者をそのまま救うために弥陀は、兆載永劫という気の遠くなるほど長期のご修行の末に、色もなければ形もないご自身のまことの大慈悲心を、我々が聞く一つで受け取れるように六字の名号にしてくだされた。それが、無上宝珠、功徳の大宝海と言われる「南無阿弥陀仏」である。
蓮如上人は、名号の偉大な功徳を、こう教示されている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」
(御文章5帖目13通)
〝南無阿弥陀仏は、字数はたった六字だから、そんな凄い力があるとは誰も思えぬだろう。だがそれは、猫に小判、豚に真珠で、名号六字の真価を知る知恵が我々にないからだ。本当は、南無阿弥陀仏の六字の中には、どんな人をも無上の幸福にする、計り知れないお力があるのである〟
阿弥陀仏は、この名号の大功徳を、「聞く一念(何兆分の1秒よりも短い時間)に与えて絶対の幸福に救い、必ず極楽浄土に生まれさせる」と誓われている。
南無阿弥陀仏の名号は、「そのまま来い」の弥陀の呼び声となって、聞く一念で我々の心に満入するのだ。同時に、明信仏智、破闇満願、本願に対する疑い、計らい、自力の心(疑情)が一切消滅して、「誠なるかなや、弥陀の本願」と信知させられ、南無阿弥陀仏の大功徳と私とが一体になるのである。
これを他力の信心という。
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す、速に寂静無為の楽(極楽浄土)に入ることは、必ず信心を以て能入と為す」
(正信偈)
昿劫流転の元凶は疑情(弥陀の本願を疑う心)一つ。
極楽浄土へ往くには信心(弥陀の本願に疑い晴れた心)一つ。
生きている今、本願疑惑心が晴れたか(信)否か(疑)で、死後、真実の浄土に往生できるか否かが決する。
これを、信疑決判といわれるのである。