善知識の説かれる教法
「善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし」
(浄土和讃)
〝善知識に遇うことは難しい
善知識が教えることも難しい
善知識の教えを正しく聞くことも難しい
善知識の教えを信ずることは最も難しい〟
善知識(仏法を正しく伝える教師)の元祖は、釈迦如来である。その釈迦の説かれたことは、「阿弥陀仏の本願一つであった」と、親鸞聖人は『正信偈』に断言なさっている。
弥陀と釈迦は、師匠と弟子の関係であり、弥陀を太陽とすれば、釈迦は月のようなもの。日光を受けての月光であるから、大宇宙最尊の弥陀の光明(お力)がなければ、釈迦の教法もありえない。
本願とは、本当の願いである。誓願ともいわれるように、お約束のことである。
阿弥陀仏の本願を平易に表現すれば、次のようになろう。
「どんな人をも必ず助ける
絶対の幸福に」
人は皆、幸福を求めて生きているが、他と比較しなければ喜べぬ相対の幸福しか知らない。やがては色あせ、死の巌頭に立てば、泡沫と消えていくものばかりである。
そんな私たちを弥陀は、未来永遠に変わらぬ絶対の幸福に救うと、誓われている。
この阿弥陀仏の本願を、生涯説き明かされた釈迦のように、弥陀の本願ばかりを説き勧められる方を善知識という。
蓮如上人は、
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖目十一通)
と教示されている。
親鸞聖人は、弥陀の本願の開顕に90年の全生涯を捧げられた、まさに無二の善知識であった。主著『教行信証』の冒頭には、こう直言されている。
「難思の弘誓は難度の海を度する大船」
相対の幸福しか知らぬ私たちに、絶対の幸福など想像もできないから「難思」と言われ、十方衆生(大宇宙のすべての人)と誓われた途方もないスケールを「弘誓」と言われる。まさしく本師本仏(大宇宙の仏方の師)であり、無上仏(阿弥陀仏の別名)の本願なのである。
それは、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく極楽浄土まで渡す大きな船であると、 「難度の海を度する大船」と例示されている。
この大船に乗じた無上の幸せは、言葉にかからず、文字にも表せず、思い浮かべることもできぬと、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽」と讃仰されながら、
「生きている今、乗船できる。必ず絶対の幸福になれるのだ」と平生業成の弥陀の救いを伝えようとなされている。
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
(正像末和讃)
「こんな罪の重い者が、本当に乗せてもらえるだろうか」と疑っているのは、弥陀の無窮の願力を知らないのだ。「どんな極悪人も救う」本願力に底を入れているのである。
「仏法を聞きながら、他人に言えないことばかり思い続けている。こんな奴は」と悩んでいるのは、無辺の仏智を疑っているのだ。心は大宇宙を飛び回り、一心に集中できない散乱放逸の我々を、そのまま乗せて救う大悲の願船なのである。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」
(浄土和讃)
弥陀は、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と、仏の命である正覚(仏の覚り)を懸けて、 「必ず信楽(絶対の幸福)に生まれさせる」と誓われている。だから、信楽に生まれる時が必ず来るのだ。それは、いつとはなしではない。一念に絶対の幸福に慶喜する人は、いつ死んでも浄土往生間違いなしとハッキリするのである。
これでもか、これでもかと、本願への深い疑いの闇を開かんとされる、聖人の聖容が彷彿とする。
仏法は聴聞に極まる。
聞思して遅慮することなかれ。
聞く一つで、必ず救われるのだ。
二千畳も、各地の会館も、ただ弥陀の本願を聞信し、「人身受け難し、今已に受く」(よくぞ人間に生まれたものぞ)と人界受生の本懐(人生の目的)を果たすために建立された法城なのである。