煩悩具足と弥陀の本願
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
(『歎異抄』9章)
“「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心がありません。また、浄土へ早く往きたい心も起きません。これは、どういうわけでありましょう」と率直にお尋ねしたところ、「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたもか」と仰せられた”
親鸞聖人と弟子の唯円房の、あまりにも有名な対話である。
この聖人の告白は、弥陀に救い摂られた人の懺悔であって、懺悔も歓喜もなく、「喜べなくて当然」と喜ばぬのを手柄のように思っている、救われたつもりの人の不満とは全く違う。
「永劫の迷いの絆を断ち切られ、広大な世界に救われても喜ばぬ、どこどこまでも助かる縁なき不実者じゃのう。そうであろう唯円房、こんな者が弥陀の独り子だとは、なんと頼もしい限りでないか」
肉体の難病が救われてもうれしいのに、未来永劫、助かる縁なき者が、不可称・不可説・不可思議(*1)の功徳が満ちあふれ、かの弥勒菩薩(*2)と同格になり、諸仏に等しい身になるのである。天に踊り地に躍るほど喜んで当然なのだ。
(*1) 不可称、不可説、不可思議……言うことも、説くことも、想像もできないこと。
(*2) 弥勒菩薩……仏のさとりに最も近いさとりを開いている有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)。
なのに喜ばぬのは、この世の欲望や執着に迷う煩悩の仕業。煩悩に狂い、3年の恩を3日で忘れる猫よりも恩知らずの悪性に、懺悔のほかはないのである。
だが、懺悔の裏には歓喜がある。
「しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり」
“弥陀は、とっくの昔から私たちを「煩悩の塊」とお見抜きになっている。弥陀の本願は、このような往生一定の身に救われても喜ばぬ、しびれ切った私たちのためだったと知られて、いよいよ頼もしく思えるのだ”
喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺し切った自性(機)が見えるほど、弥陀の本願(法)に救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。
あくまでこれは弥陀に救われ、「煩悩具足の凡夫」と自己の実態が疑いなく知らされてのことである。一念(時間のきわまり)で実機(真実の自己)が知らされると同時に、「煩悩具足の者を、必ず極楽往生させる」阿弥陀仏の本願まことであったと、法に疑いが晴れる。これを信機信法(二種深信)という。
だがうぬぼれ強い我々は、自分が「煩悩具足の凡夫」とは毛頭思えない。釈迦45年間の教え、あの膨大な一切経は、そんな我々に「煩悩具足」と知らせ、弥陀の救いに値(あ)わせるために説かれたものなのである。