「真仮を知れ」親鸞聖人の教え
「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)
"真"とは「人生の目的」、"仮"とは、生きがいや趣味、目標など「人生の手段」のことである。
「目的」と「手段」の水際のつかぬのを、「真・仮を知らざる」と言い、生命の大歓喜のないのを「如来広大の恩徳を迷失す」と言われている。
「何が生きがいか」と尋ねると、「子供」「金」「旅行」「マイホーム」など、各人各様の答えが返ってくる。だが、人それぞれ異なる「生きがい」は生きる「手段」であって、「人生の目的」とは全く異なるものである。人生の目的とは、万人共通唯一のものだ。
親鸞聖人が仰る「真」(人生の目的)とは、いつでもどこでも変わらぬ、三世十方を貫く真実をいう。800年前も、今も、1万年後も、人生の目的は不変である。アメリカ人も中国人も日本人も、人間に生まれた目的は共通のものである。
ところが、そんな万人普遍の人生の目的は誰も知らない。各自が明かりにしている「生きがい」や「趣味」を、「人生の目的」と混同している人ばかり。
だから「人生の目的を教えられたのが親鸞聖人」と話しても、聞いている人は「趣味、生きがいを教えられた」程度にしか聞いていない。親鸞聖人のみ教え徹底には、まずこの誤解を正し、人生の「目的」と「手段」は全く違うことを鮮明にしなければならない。
本当は、親鸞聖人が教えられたのは「人生の目的」どころではなく、「多生の目的」である後生の一大事の解決である。親鸞聖人は、億劫の間求めても求まらなかった、多生の目的が果たせた大歓喜を『教行信証』冒頭に、
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
と叫ばれている。
仏教の究極の目的は、無始昿劫より流転してきた魂の解決だが、趣味や生きがいしか知らぬ相手に、「多生」「億劫」といっても通じるはずがない。せいぜい「人生の目的」と言うしか、伝えようがない。相手に分かる言葉でなければ、話す意味がなくなるからである。
だから心ならずも、まず「人生の目的」という言葉を使って、「趣味や生きがい」との違いを徹底するのが、仏法を伝える出発点なのだ。
親鸞聖人も、「真」と「仮」の相違点を峻別すること一つに、90年の生涯を捧げられている。真仮を知ることが、いかに大問題か知られよう。"人生の目的と生きがいの違いくらい分かっている"と、簡単に考えてはいないだろうか。この違いを知らないから、生命の大歓喜が獲られず、弥陀如来の広大なご恩徳が分からないのだと、親鸞聖人は仰せなのだ。「真仮」を明らかにすることは、出発点であり、最終点でもあるのである。