真の先祖供養とは――平生業成
8月になると、墓参りや読経など「先祖供養」が盛んに行われる。親鸞聖人は、真の先祖供養をどう教えられているのだろうか。
まず、「先祖」といっても「親」であることを確認しなければならない。先祖と聞くと、祖父母や何十年も前の人をイメージしがちだが、最も身近な先祖は両親である。その親、さらにその親と26代遡れば、単純計算で1億3000万の先祖がいたことになる。100代、200代前までたどったら、世界人口を優に超えるだろう。
それら幾十億の先祖のうち誰一人欠けても、人間に生まれることはできなかったのである。生まれがたい人間に生まれなかったら、今、仏法を聞くこともできなかった。その喜びがあればこそ、先祖の恩に報い、親に孝行しようという心が生まれるのである。
先祖を供養するには、先祖の喜ぶことをしなければならない。酒を飲まぬ親に、どんな高級な酒を買っても孝行にはならぬように、先祖の心に背いていては、供養にならない。では、先祖の最大の願いは何か。それは故人に尋ねずとも、自分が子に望むことを考えれば分かる。
子供の幸せ以上の願いが、親にあるだろうか。汗と膏でかき集めた財産を子に遺すのも、幸福にしてやりたいからである。だが実際は、「あらおかし 喧嘩の種を かき集め」と言われるように、遺産相続ほど弁護士を煩わせる問題はなく、「争続」と揶揄されている。兄弟親類いがみ合い、亡き親を悲泣させていては、供養どころではない。
いちばん先祖の喜ぶのは、子や孫が真の幸福になることである。では、どうすれば本当の幸せになれるのか。これこそ全人類の最も知りたい問題であろう。
すべての人は幸せを求めているが、生まれるが早いか、人生の荒海には苦難、困難、災難の波が際限なく押し寄せる。近くに浮かぶ金や地位、名誉など、生きがいという丸太にすがって、一時ほっとするが、ヤレヤレと思う間もなく、大波にさらわれ潮水のんで苦しまなければならない。さらなる丸太を求めては裏切られることの繰り返しで、人生、まるで苦しむために生きているようなものだ。
そんな苦悩の衆生を憐れに思われた阿弥陀仏(大宇宙の無数の仏方の師)が、「必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われたお約束が、弥陀の本願である。その無上の誓願を船に例えられた聖人は、救助の大船の厳存を、こう直言される。
「難思の弘誓は、難度の海を度する大船」(教行信証)
阿弥陀仏の本願は、難度の海に苦しむ私たちを乗せて、必ず極楽浄土に渡してくださる大船である。
人生の苦海を、明るく楽しく渡す大船がある。この大船に乗り、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟の生命の大歓喜を獲ることこそ、人生の目的なのである。
弥陀のお力で大船に乗せていただき、人生の大事業が達成されるのは、平生の一念であることを、漢字四字で「平生業成(へいぜいごうじょう)」という。これは聖人の教えのすべてを表す一枚看板である。
大船に乗ずるまでは、聴聞に極まる。弥陀の本願を聞き抜き、平生業成の身になる(大船に乗じて、浄土往生間違いない身になる)ことこそ、真の先祖供養なのである。