なぜ古今万人の実相といえるのか
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
〝どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのである〟
(歎異抄)
この告白は、ひとり親鸞聖人のみならず、古今東西万人の実相であることを、『教行信証』には、こう断言されている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし」
〝すべての人間は、果てしなき過去から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくないものである〟
自身のことに限らず、なぜ古今東西万人のことを、かくも道破できたのであろうか。誰もが疑問に思うだろう。
しかしこれは、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば誰しも知らされることなのである。
弥陀の救いは「聞く一つ」で決する。その「聞」について、親鸞聖人はこう教示されている。
「聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」
(教行信証信巻)
「仏願」とは阿弥陀仏の本願のこと。本師本仏の阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を相手に「若不生者不取正覚(必ず絶対の幸福に生まれさせる)」と誓われている。「生起」とは、弥陀はなぜ本願を起こされたのか。十方衆生を、どんな者と見てとられて本願を建立されたのか、ということである。
それは本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるように、十方衆生は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍と見抜かれている。
親を邪魔にする五逆罪、善知識をおろそかにする謗法罪、無常を無常とも思わず、罪悪を罪悪とも感じない、信ずる心も、念ずる心も、たのむ心もない闡提が、十方衆生の実相と十劫の昔にお見通しなのである。
そんな十方衆生を助けるために、弥陀が法蔵菩薩と成り下がられて、五劫の思惟と兆載永劫のご修行をなされたのが「本末」の「本」なのだ。
その五兆の願行の末に、逆謗闡提の十方衆生を救い切る力のある無上の大功徳の南無阿弥陀仏のご名号を成就完成なされ、再び阿弥陀仏に復帰されたのが「本末」の「末」である。
この「仏願の生起・本末」を聞いて「疑心あることなし」と弥陀の本願まことであったと救われれば、弥陀のお見抜き通り、「十方衆生は逆謗の屍」と疑い晴れるのである。
かくて親鸞聖人は、三世を貫き十方に遍く万人の真実を、喝破なされたのである。