「雑毒の善」ならやらない方がいいのか
悪性さらにやめ難し
心は蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞ名づけたる
(悲歎述懐和讃)
“何としたことか。蛇や蠍のような恐ろしい心は、少しもやまない。こんな心に汚染されている善行だから、雑毒の善、ウソ偽りの行と言われて当然だ”
阿弥陀仏に救われて知らされた自己の実相を、親鸞聖人はこう悲嘆なされている。
弥陀に救われても、煩悩具足の実態は変わらない。108の煩悩は、減りもしなければなくなりもしない。欲や怒り、ねたみそねみの愚痴の心は、弥陀の大悲の願船に乗せていただいても、少しも止むことがないのである。
他人に親切しても、「ありがとう」の一言がなかったら面白くない。「俺はこれだけやっている」と、手がら心で相手を見下し傲然とする、鼻持ちならない臭気が漂っているのだ。
これは無論、親鸞聖人だけのことではない。阿弥陀仏は、十方衆生の実態を、とうの昔に次のように見抜かれている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
(教行信証信巻)
“すべての人間は、はじめなき昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごとたわごとのみで、真実の心はまったくない”
古今東西の全人類は、例外なく、煩悩100パーセントの極悪人である。
こんな煩悩具足の悪人を目当てに、そのまま大悲の願船に乗せて絶対の幸福に生かし、極楽浄土まで必ず連れていくぞ、というのが弥陀の本願である。
石は沈むが自性だが、船に乗せれば、沈む自性のままで水に浮かぶ。我々凡夫は堕つるが自性だが、弥陀の大船に乗せていただけば、堕つる自性のままで光明の広海に浮かび上がり、必ず浄土往生できるのだ。
しかしここで、どうせ雑毒の善ならば、やる意味がない、やらないほうがいいのではないかと誤解してはならない。
仏眼からは、人間の行う善は虚仮雑毒で、往生の役に立つ善は一つもないが、行為そのものは善なのだから、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が現れるのである。どうせ雑毒だからと開き直って自堕落な生活をしていたら、悲惨な人生になるのは当たり前のことなのだ。
また、阿弥陀仏に向かっての善は、弥陀の十九願力によって全て宿善になるのだよと親鸞聖人は、次のように和讃なされている。
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり
(浄土和讃)
“十九願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(十八願)ためのお計らい(方便)だから、信心獲得の方便(宿善)にならぬ善はないのである”
信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。