弥陀は、ただ与えるためだけに
「如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり」
(親鸞聖人)
“阿弥陀如来は、なぜ本願を建てられ、南無阿弥陀仏を創られたのか。よくよく案じてみるに、すべての仏から見放され苦しむ我々を見捨てることができなかったので、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて助けたいの弥陀の大慈悲心一つが知らされる”
苦から苦の綱渡り、迷いの旅路の果てしない我々をご覧になって、十方諸仏(大宇宙に無数にまします仏方)は、何とか助けてやりたいの大慈悲心を起こされた。「仏心とは、大慈悲これなり」と言われる通りである。
しかし、我々があまりにも罪悪深重であったため、諸仏方は力及ばず、断念せざるを得なかった。
そこで十方諸仏の本師本仏(師の仏)でまします阿弥陀仏は、大宇宙の仏方が皆、さじを投げた者たちならばなお見捨ててはおけぬと、五劫(気の遠くなる期間)の長期にわたって思惟なされ、「我一人、助けん」と崇高無上の大願を建てられたのである。
仏さまは皆、智慧(助ける力)と慈悲(助けたい心)を兼ね備えられたお方であるが、阿弥陀仏が十方諸仏に本師本仏と仰がれるゆえんは、智慧(助ける力)がずば抜けておられるからである。
釈迦はそれを、
「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」
(阿弥陀仏のお力は、大宇宙の仏の中で最高であり、諸仏の力のとても及ばぬ、ずば抜けたものである。)
「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」
(阿弥陀仏は、十方世界の諸仏の王である。そのお力は、群を抜いて勝れたものである)
と絶賛されている。
だが、「必ず助けてみせる」の弥陀の願心は色も形もなく、我々には認識できない。そのままではとても救うことができないから、弥陀は不可思議兆載永劫(気の遠くなる期間)のご修行の末に、我々の認識にのる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、ご自身の智慧と慈悲のすべてを封じ込められ、ついに無上宝珠の名号を完成してくだされたのだ。
手も足もないダルマのような我々は、ああしなさい、こうしなさいと言われても不可能。ああなって来い、こうなって来い、と注文されても何一つできない極悪人である。
だから弥陀は、無条件に、ただ廻向する(与える)ことだけを考えて、六字の名号を成就(完成)してくだされた。弥陀のまことはひとえに、悪業煩悩にまみれて苦しみ、闇から闇へと突っ走る十方衆生(すべての人)に、無上の功徳の名号を与えて、絶対の幸福に救うためであったのである。弥陀の救いが、他力廻向と言われるゆえんだ。
だが、どんな大功徳があっても、我々がそれを頂かなかったら助からない。当然だろう。
ゆえに弥陀は、名号が完成した十劫の昔から、私たちに名号を与えて助けようと必死になっていられるのだが、深い迷いの我々は、疑って一向に受け取ろうとしないでいる。この疑情一つが、実に三世を流転してきた元凶なのである。
南無阿弥陀仏の大功徳は「聞く」一念で全領(丸貰い)できる。
この大功徳を私たちが頂かなければ、弥陀の五兆の願行(大変なご苦労)は水泡に帰すのだ。銘記しなければならない。
仏智うたがう罪ふかし
この心おもいしるならば
くゆる心をむねとして
仏智の不思議をたのむべし
(親鸞聖人)
“弥陀の本願を疑うことほど恐ろしい罪はない。その大罪を知られれば、深く懺悔し弥陀の本願不思議を信ずる身になるのである”