無上の幸福こそ人生の目的
親鸞聖人の教えを漢字四字で「平生業成(へいぜいごうじょう)」といわれる。
「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成を「成」と言って「業成」といわれる。
「平生業成」とは、人生の目的が平生に完成する、ということである。
しかもその人生の目的は徐々に完成するのではなく、何兆分の一秒よりも速い「一念」で成就するのだと、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に
「一念とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす」
と親鸞聖人は説かれている。
「信楽開発(しんぎょうかいほつ)」とは、阿弥陀仏に救われ“人間に生まれたのは、これ一つだった”と、人生の目的が完成したことをいう。その救いは分秒にかからぬ、極めて速い時間であるから「時尅(じこく)の極促(ごくそく)」と言われている。
阿弥陀仏に救い摂られるとは、弥陀から「南無阿弥陀仏」の名号を頂くことである。大宇宙の善本徳本の結晶である名号には、我々を絶対の幸福(信楽:しんぎょう)にする、無上甚深のお働きがあるのだ。
だが、わずか六字の名号に、そんな功徳があると信じられるほど、我々の迷いは浅くはない。猫に小判、豚に真珠で、南無阿弥陀仏の宝を知る智恵の無い我々に、蓮如上人は分かりやすく、こう説示されている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」
(御文章)
名号には広大無辺、無上甚深の功徳利益がある。この功徳の大宝海を一念で全領(※)することが、人間に生まれた目的である。政治も経済も、科学・医学・道徳・法律も、すべてこの大目的を果たすために存在するのである。
※全領(ぜんりょう)……丸もらいすること。
生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になる。このゴールに向かって進む時、一切が意味を持ち、強くたくましい人生が開かれるのである。
「なぜ生きる」が大事だから、「どう生きる」が大事。「なぜ生きる」は仏法にしか説かれていないから、仏教を聞くために勉強や仕事の「どう生きる」に一層、努力精進するようになるのだ。
「仏教と直接関係ない勉強や仕事は身が入らない」と言う人は、まだ人生の目的がよく分かっていないのだろう。財宝の満ちた城があると分かりながら、そこに向かって歩く気が起きないということは、ありえない。宝城に向かって歩かないのは、その存在をよく聞かないからだ。聞法を重ねて、出世の本懐(この世に生まれてきた目的)をよくよく確認しなければならない。
親鸞聖人が鮮明にされた人生の目的を、一体どれだけ知る人があるだろうか。眠っている人を起こせるのは、目の覚めた者だけである。
「一念の信心を取りて法性常楽(ほっしょうじょうらく)の浄刹(じょうせつ)に往生せずは、まことにもって宝の山に入りて手を空しくして帰らんに似たるものか。よくよく心を沈めて之を案ずべし」
(蓮如上人 御文章四帖目三通)