超世希有の大信心と出世の本懐
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。
(蓮如上人)
親鸞聖人の教えは〝信心一つで助かる〟という教示である。どの宗教でも「信心」というが、聖人の説かれる「信心」は、それらとは全く異質のものである。
一般には神や仏を信ずることを信心というが、信心とは「心で何かを頼りにし、あて力にすること」だから、神仏に限ったものではない。夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を頼りに生きている。金や財産の信心もあれば、地位や名誉の信心もある。何かを信じなければ、一日たりとも生きていけないから、すべての人は何かの信心を持っていることになる。
だが、信じていたものに裏切られると、たちまち苦悩に襲われる。しかも信じ込みが深いほど、その苦しみは深刻となる。大震災で仮設住宅に移された母親が、最も明かりにしていた息子をテロで奪われた悲嘆は、余人の想像に余りある。永年、信じていた友であるほど、裏切られた怒りは激しさを増すだろう。
崩れる信心に生きれば、苦しむだけだから、何を信ずるかを慎重に選ばねば、幸福にはなれないのである。
では親鸞聖人が生涯、教示なされたのは、いかなる信心であろうか。蓮如上人は「信心という二字をばまことの心と読めるなり」と説かれ、それは「まことの心」なのだと教えられている。
「まことの心」は、人間にはカケラもない。それは九歳から比叡で二十年、難行苦行された聖人は、身をもって知られたことだった。本当の自己を照らし出された聖人は、煩悩にまみれた人間の全てはウソ偽りであり、まことは一つもないと明言されている。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄)
(意訳)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
煩悩具足の者が、不実の心で、いつどうなるか分からない無常のものを信じ、苦しみながら生きている。ただ弥陀の本願念仏のみぞまことだと、道破されている。
弥陀の本願は、真実のお言葉だから、「摂取不捨の真言」とも言われる。その真言に疑い晴れて、「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(弥陀の本願まことだった、ウソではなかった)と知らされた心を、親鸞聖人は「信心」と仰っているのである。
それは決して、我々に起こせる心ではない。まことを信じられるのは、まことの心によってのみである。まことのない煩悩具足の我々が、まことの本願に疑い晴れるのは、南無阿弥陀仏のまことの心(仏心)を弥陀より賜り、仏凡一体となるからである。
この超世希有の大信心を獲得し、出世の本懐(この世に生まれた目的)を遂げるための人生であることを銘記したい。