万人の目指す「無碍の一道」
「念仏者は無碍の一道なり」(親鸞聖人) 『歎異抄』第7章
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者だと宣言されている。親鸞聖人といえば『歎異抄』と言われるほど有名な『歎異抄』の中でも特に心に残る一文だが、「無碍」とは何の障りが無くなることか、正しく理解しないと、仏教も親鸞聖人の教えも、全て分からなくなる。
弥陀に救われて無くなる「障り」とは、人生の目的を果たすのを妨げているものである。全ての人は何のために生まれ、生きているのか。どこに向かって、生きなければならないのか。
政治、経済、科学、医学、人間の営みは全て、少しでも長く快適に生きるために存在する。しかし、いくら寿命が延びて、老後が保障されても、死ななくなるのではない。
万人の確実な未来は「死」である。しかもそれは、遠い先のことではない。暴走車で7人が犠牲になってから2週間もたたぬうちに、同じ京都で集団登校の小学生の列に、無免許の車が突っ込んでいる。無常の前では、老いも若きも関係ない。今晩、無常の嵐に吹かれたら、今晩から後生である。
ところが後生は有るのやら無いのやら、サッパリ分からない。後生真っ暗な心で生きているのは、着陸地の無い飛行機と同じである。燃料は刻々と減っていくのに、行き先が分からない。どうして安心できるだろうか。機内食や娯楽、快適な空の旅どころではなくなるだろう。科学技術によって、昔とは比較にならないほど生活は便利になったが、幸福感は少しも変わっていない。その根本原因は、100パーセント確実な行き先である「後生」が暗いからである。
飛行機でいえば、着陸地の分からないことが、全ての不安の根元であるように、「後生暗い心」が人生を苦に染める元凶である。この後生暗い心を、仏教では「無明の闇」と言われる。この闇が弥陀の名号(南無阿弥陀仏)によって破られ、いつ死んでも必ず浄土へ往ける「往生一定」になることこそ、人生の目的なのである。
『歎異抄』で「無碍」と言われる「碍」とは、苦悩の根元「無明の闇」であり、その無明が晴れて「往生一定」になったことを、「無碍の一道」と喝破されているのである。
無明が晴れさえすれば、一切が往生の障りにならず、絶対の幸福に生かされる。親鸞聖人は29歳で弥陀に救われ、無碍の一道に出られてからも、90歳でお亡くなりになるまで、四方八方から総攻撃を受けられた。だが、往生一定の大安心を崩せるものは何も無いから、流刑の苦難(35歳)も
「これなお師教の恩致なり」(御伝鈔)
“これはみな、恩師・法然上人さまのおかげである”
と喜びに転じておられる。
どれだけ非難攻撃されても、恩徳讃(※)に生き抜かれた聖人は、
「誠に仏恩の深重なるを念じて人倫の哢言を恥じず」(教行信証)
“広大な弥陀の洪恩を思うと、どんなに非難攻撃されても、ジッとしてはいられない”
と、何ものも恐れぬ勇気で突き進まれている。まさに無碍の一道であり、人類の究極の願いは、この無碍の世界なのである。
※恩徳讃
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし (親鸞聖人)
“阿弥陀如来の高恩と、その本願を伝えたもうた方々(師主知識)の大恩は、身を粉に骨を砕きても済まない。微塵の報謝もできぬ身に泣かされるばかりである”