運命の大転換
運命とは、何と不可解なものであろう。
なぜ私は日本に生まれたのか。中国13億の一人や、ニューヨークのど真ん中に生まれていたもよかった。なぜ男に生まれたか。おかげで子どもの心から競争、競争で疲れ果てた。かわいい女に生まれていれば、できる男と結婚し、一笑楽して暮らせたものを。なぜ昭和に生まれたのか。平成の今なら、物も娯楽も溢れている。なぜこの両親の元に生まれたか。もっと才能豊かな、リッチな家に生まれていれば。なぜこの女と結婚したのか。あっちと結婚していたら、今頃どんな人生が……などと、ついあれこれ夢想する。
墜落した飛行機に、乗り遅れて命拾いした人。キャンセル待ちで飛び乗って散った人。列車事故で一両目でなくなった人、2両目で助かった人、ささいなことが生死を分ける。
一つ何かが違ったら、運命は全く異なっていた。
こうすれば間違いなくこうなる、と思ってやったのに、とんでもない結果になって、一体、今後どうすればいいのか、途方に暮れることもしばしばある。
一体、我々の運命は、何によって決まるのか。万人の最大関心事に違いない。
ただの偶然と嘯く者、全能の神から与えられたと信じる者。しかし現代人の大半は、あれこれ考えても結局は「分からない」とあきらめ、どうせなるようにしかならないさと、半ば投げやりになってはいないだろうか。
ここに仏教は、運命とは言わぬが、人間の幸不幸、禍福のすべては、己の業力(ごうりき)によって生み出された結果であるとする。
業とはカルマ、行為のこと。まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。受ける結果のすべては、我が身のまいたものばかり、というのが仏教の根本教理である。
これを、善因善果、悪因悪果、自因自果(または自業自得)の因果の道理という。しかも、過去、現在、未来の三世の実在を説き、因果の理法は、この三世を貫くと教示されている。
日々の行為は、目に見えない業種子(ごうしゅうじ)となって、永遠の生命の中に納まり、その業因が縁に触れて、様々な結果を引き起こす。
「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところ、これみな三塗の業なり」(中国の高僧・善導大師のお言葉)
我々の生命は、固定不変な実体ではなく、無数の業種子を集めて、暴流(滝)のように流れている。果てしない過去から生まれ変わり、死に変わり、流転輪廻を重ねてきたのである。
永劫の迷いを断ち切り、絶対の幸福を獲得するには、ただ仏法を聞くよりない。弥陀の大願業力で生命は、往生一定、不退転の魂に大転換するのだ。