どこが「おかしな話」なのか
人生いろいろと言われるように、人の「生き方」にも色々あります。
しかし共通しているのは幸福を求めている、ということです。みな人は、欲望を満たすところに幸福があると考えていますから、欲望を満たす「生き方」を、みな選んで生きているのです。
この「生き方」を「生きがい」とも、「どう生きる」とも言われます。
日本を代表する大女優が、「日々、一生懸命に生きています」と語っています。女優という生き方を生きがいとして懸命に生きているのです。
オリンピックの柔道で金メダルを獲得した人が、「今は子育てのほうが大事」と引退を表明しました。今後の生きがいは「アイスクリームを作ること」と笑顔で語っています。「生き方」や「生きがい」は、その時々で変わっていくものなのです。
「食べたいものを食べて楽しく生きる」「世のため人のために生きる」「良き配偶者を求めて」「マイホームを得るため」「老後の資金を蓄えるため」「目指す大学に入るため」「アスリートになり新記録を作りたい」「骨董品集めを楽しみに」「難病から人類を救うため」など、その時々に何を「生きがい」にして「どう生きる」しか考えていないのが、私たちの姿です。
もちろん、「どう生きるか」も大事なことです。しかし、蓮如上人はそれを、映画『なぜ生きる』の中で「おかしな話」と言われています。
どこがおかしいのでしょうか。
一言でいうと、「100%死なねばならぬのに、生き方しか考えていない」ことです。
死なない人なら、生き方だけ考えていてもおかしくはないでしょう。しかし「必ず死なねばならない」、しかも「今日とも明日とも知れぬ命」なのに、「生き方」しか考えていないから、「おかしな話」だと蓮如上人は仰るのです。
「ガンを宣告された。限られた時間を、どう生きようかと考えている」という患者さんだけのことではありません。古今東西のすべての人が、この方と同じく「今日とも明日とも知らぬ命」なのですが、「いつまでも死なぬつもりの顔ばかり」。
もっと考えなければならない大事なことがあるのではないでしょうか。それを全く考えもせず、「生きること」しか考えていないところに「おかしさ」があるのです。
このおかしさに終止符を打ち、全人類を絶対の幸福にする教えが仏法です。だが、これを「本当におかしなことだなあ」と感じなければ、仏法を聞いていても“ただの話”になってしまいます。仏法が始まらないのです。
「おかしな話だなあ」と思えるほど、弥陀の救いを真剣に求めずにおれない、仏縁深い人だと言えるでしょう。
特集:人生の目的 私たちの確実な未来 「アリとキリギリス」の教訓