大悲を普く伝える最高善
親鸞聖人、42歳の御時のこと。東国佐貫にご滞在中、大飢饉であふれる餓死の惨状に、何とか救済したいの思いやみ難く、浄土三部経を千回読もうとなされたことがあった。
今日でも、読経で死人が楽になるという迷信は金剛のごとしだが、当時は経典を多く読めば人の苦しみが救われるのだということが、常識になっていた。
ところが、4、5日読まれて親鸞聖人は、
「これは、何ごとだ。自信教人信難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩ではなかったか。他に何の不足があって、経典を読もうとしていたのか。われ誤てり、誤てり」
と仰って、直ちに布教に旅立たれたと「恵信尼文書」に記されている。
「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」とは、善導大師の有名なお言葉である。自らが信を獲る(弥陀に救われる)ことも難しいが、他人を弥陀の救いまで教え導くことは、もっと難しい。だが、その最も困難な、弥陀の誓願を一人でも多く伝える以上の仏恩報謝はないと教えられている。法施は人間のなしうる最高の善だから、救われた人には最高報謝、求めている人には最尊の仏縁になるのである。
全人類は、死の滝つぼに向かう船に乗って、川下りをしている。船の中で儲かった、損した、好きだ嫌いだと騒いでいても、最後は船もろとも、真っ逆さまに後生へ飛び込む。そんな絶体絶命の船旅を、少しでも長く楽しくしようとするのが、政治や経済、科学や医学、法律やスポーツである。それらも大事だが、滝つぼに落ちる以上の大事は無いから、これを「後生の一大事」といわれる。
生まれてから死ぬまで、暗い人生に苦しみ、後生は永遠の苦患に沈む私たちを憐れに思われた弥陀が、やるせない大慈悲心から「われ一人助けん」という願いを発され、造ってくだされた極楽往きの大船が、「大悲の願船」である。
この大船に弥陀のお力で乗りかえ、必ず浄土往生できる身になれば、ただ今から未来永遠の幸福に生かされる。後生の一大事を抱える全人類に、その解決をしてくださる大悲の願船を伝えるほど、相手を幸せにする尊行はない。滝つぼに落ちる船の中で1兆円与えるより、もっと喜ばせることなのである。
飢饉に直面された聖人のように、私たちも大震災のニュースなどを見ると、矢も盾もたまらなくなる。そんな時、迷いの深い我々は、目に見えるものしか分からないから、飲食物や毛布、義援金などを送るのが最善に思える。親鸞聖人でさえ誤られたのだから、なおさらだろう。しかし、それらは一時的な救いではあっても、満足に助け切ることは極めて難しい。弥陀の誓願は目に見えないが、この超世希有の正法をお伝えすることこそ、最高の善なのである。
一番善い種を蒔けば、最高の幸せの花が咲く。共に光に向かって進もう。