妻を襲った突然の病 問わずにおれなくなった「なぜ生きる」
元高校教諭 石崎重光(仮名)
私の妻は、結婚前から熱心に親鸞聖人の教えを聞き求めていました。「一緒に聞こう」と何度も誘われましたが、部活動の指導に熱中する私は、休日も、学校にいたものです。
そんなある日、妻が背中の痛みを訴え、病院に行きました。妻は、仕事の疲れと考えていましたが、後日、検査結果を聞きに行くと、そのまま入院することになったのです。
「膵臓ガンです。あと3カ月の命」との主治医の言葉。
定年まであと2年、「退職したらゆっくり旅行しよう」と約束したばかりだったのに。翌日から病院通いが始まりました。
「治してやりたい。自分にできることは、すべてしてやろう」
しかし、時間だけがむなしく過ぎていきました。やがて、黄疸が発生、胆汁を体外に出す処置が、痛々しくてなりません。日に日に病状が悪化していく妻、どんなに頑張っても、「もう自分の力ではどうにもならない」と知らされた時、ポツリと一言。
「お父さん、もういいから」
5カ月間、苦しみに耐え抜いた末の言葉です。
大きく息を吸ったまま吐き出さない。1分後、もう1度大きく息を吸ったのが最期。まさに※「白骨の御文」そのものでした。
深い悲しみは簡単にはいえません。しかし、妻の病が縁となり、私自身、「何をするために生まれてきたのか」、真剣に考えるようになっていました。
生きる目的を示されたという、親鸞聖人の教えが知りたい。
未来を担う若者たちに
生きる目的が分かり始めると、
「周りの人にも知ってほしい」
という気持ちになります。
教室で、ストーブの周りに集まってきた生徒に話をすると、皆、熱心に耳を傾けるのです。
またある時、中学・高校の校長と生徒指導部長が集まる連絡協議会で、生徒の自殺防止対策の提案がなされました。結論が出ないまま終わろうとした時、勇気を出して発言しました。
「学校教育は『どう生きるか』ばかりに気を遣い、『なぜ生きねばならないか』は、だれも教えません。おかしいのではないですか。家庭はもちろん学校でも、『人生の目的』についてハッキリ教えるべきではないでしょうか」
ざわついていた会場もシーンとなり、メモを取っている校長もありました。
苦しくとも生きねばならぬ理由を教えねば、子供たちの自殺は止められません。妻が残してくれた親鸞聖人の教えを、もっと深く学び、次世代を担う若者たちに、伝えていきたいと思います。
※白骨の御文
……蓮如上人の書かれたもの。
葬式や法事などで、よく拝読され広く親しまれている。
連綿とつづられた切々たる無常観は多くの人の胸を打ちます。
「それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の御文)