異端か、正統か
『歎異抄をひらく』発刊から1年10カ月
『歎異抄をひらく』(高森顕徹先生著)への反論書が出ないまま、二度目の新年を迎えた。
発刊後、これでついに1年10カ月である。
異常な事態
毎年十数冊出ていた「歎異抄解説書」が、『ひらく』以後、パッタリないのだから、これは異常事態といっていい。
何しろ、ことは『歎異抄』だ。
日本の古典でも、文章、内容ともに秀逸で、圧倒的な人気を誇る『歎異抄』は、700年の歴史を持つ名著である。
『善の研究』で有名な世界的哲学者・西田幾多郎は、第二次大戦末期、「(空襲の火災で)一切の書物を焼失しても、『歎異抄』が残れば我慢できる」と断言したというが、ほかにも、三木清、倉田百三、司馬遼太郎など、名立たる作家や知識人、右翼から左翼まで、『歎異抄』礼賛者は数知れぬほどである。
かつては、生死を分かつ戦場で、若い兵士たちが寸暇を盗んでむさぼり読んだといわれ、今も、人生最後の日々に座右の書として『歎異抄』に涙する人は多い。
高校の教科書には、日本の思想の代表として三章の、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の一節が、悪人正機の解説とともに必ず引用されている。
毎年、洪水のように解説書が出されていたのも当然のことで、それほど『歎異抄』は、日本人の思想形成に深くかかわってきたのである。
それがなぜ1年10カ月たっても、新たな解説本がピタリと出なくなったのか。目利きの書店員の間では、「これはどういうことだろう」と噂になっているらしい。
東西冷戦も思想の対立
言うまでもなく、人間のすべての営みの根底には思想がある。
政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、道徳、あらゆるものは、思想から生み出されてくる。だから思想が変わったら、何もかもが影響を受けることになる。
かつてソビエト連邦という強大な国があった。共産主義社会の実現を目指して、資本主義陣営のアメリカと対峙し、世界を二分する東西の冷戦を戦った。
冷戦当時のドイツは東西に分割され、朝鮮半島がいまだに南北に分断されているのも、冷戦のもたらしたものである。
だが、国家の理念であった共産思想が行き詰まったために、ソ連は冷戦に敗北、解体されて現在はロシアになっている。
共産主義側だった国家も、今やほとんどが転覆崩壊し、アメリカ中心の資本主義世界の一員になっている。
つまり東西冷戦とは、資本主義と共産主義という、人類が生んだ二つの巨大な思想の対立であると同時に、それぞれの思想から生まれた国家同士の、まさに存亡をかけた戦いだったのである。
人生観、幸福観、世界観、ものの見方、これらは皆、思想から生み出される。根本まで突き詰めると、我々は何のために生きるのか、人生の目的をどうとらえるかの違いによって、この世のすべてはガラリと変わって見えるのである。
魅惑の『歎異抄』
まさにその人生の目的に直結するのが、この『歎異抄』の思想であれば、新たな解説書が出ないという今回の異変が、いかに深い問題か、ということも知られよう。
一読、人を魅了する美文の
『歎異抄』だが、その意味となると迷宮さながらに出口が分からない。
だからこれまでの解説書は、各自の私見、信条、体験による自由奔放な解釈ばかりであった。
当然ながら、その解説は百人百様で、要するに無責任な私釈がまかり通ってきたのである。
しかし、親鸞聖人90年のメッセージは唯一つ、「弥陀の本願のみぞ真実」(『歎異抄をひらく』2部18章)であったのだ。
その弥陀の誓願に救い摂られた世界が『歎異抄』には、
「摂取不捨の利益」 (一章)
「無碍の一道」 (七章)
「無義をもって義とす」(十章)
などと記されている。
しかも、弥陀の救いは、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき(歎異抄第一章冒頭)」と、平生の一念であることがズバリ、明記されている。
これこそまさに、読者が最も知りたい人生の目的とその達成なのだが、これまでのどの解説書も、肝心なこの点が全くぼけていたのだ。
不朽の名著『歎異抄』は、恐らく人類が存続する限り読まれるであろう。
だが、その真意は、誘惑しながら、手を伸ばせば遠ざかる美女のように、つかめそうで一層もどかしく、読者は悩乱され続けてきた。
『歎異抄をひらく』は、まさにそうした大衆のニーズにこたえるように世に登場し、親鸞聖人の主著『教行信証』から、『歎異抄』の真意を開かれた書なのである。
親鸞聖人のみ教えの重要な点で、これまでの解説をことごとく覆す内容であることは、ある一読者の、「これまでの歎異抄解説書は、一体何だったのだろうか」という驚きの感想に象徴されている。
反論書が一向に出ないことに、日本の思想界全体の、何か地殻変動のようなものを感じないわけにはいかないが、真宗界に限ってでも、『歎異抄』を演題として話す布教使はこれまで非常に多かった。
彼らは今、自分たちの誤りを満天下に暴露されて顔色を失っているのではなかろうか。
しかし、浄土真宗の正統を自負してきた人々は、このまま手をこまぬいているわけにはいくまい。
なぜなら放置すれば、『歎異抄をひらく』が、歎異抄解説の決定版となり、これまでの解説書が皆間違っていたことを、自ら認めることになるからだ。
判定は『教行信証』で
真宗学で成り立っている龍谷大学、大谷大学をはじめ真宗十派は、それこそ自らの存在意義を失ってしまうことになる。
かつては二千万門徒を誇っていた彼らに、それは許せることでは到底なかろう。
一体、どちらが正統で、どちらが異端か。はっきりさせなければならない。
『歎異抄をひらく』の内容に誤りがあるというのなら、堂々と反論書を出すべきではないか。
決して平行線にはならない。正邪の判定は、親鸞聖人の主著『教行信証』によってのみ決せられるのだから。
反論大歓迎である。高森先生は必ず再反論されるであろう。
さすれば、親鸞聖人の『教行信証』を舞台に、全世界を真実の渦に巻き込んでいくことになる。
新年が、そんなめでたい年になることを願って、乾杯しよう。