億劫にも獲がたき真実の浄信
「真実の浄信は、億劫にも獲がたし」
(教行信証総序)
親鸞聖人は、29歳の御時に阿弥陀仏の本願を聞信し、絶対の幸福に救い摂られた喜びを、主著『教行信証』の冒頭に、こう記されている。
果てしない永い間(億劫の間)求め続けてきた真実の信心(真実の浄信)を、今、獲ることができた、と述懐されているのである。
親鸞聖人の求め続けられた「真実の信心」とは、どんな信心であったのか。
世間で「信心」といえば、宗教の神や仏を信ずることだと思われている。「何か、信心していますか」と聞かれれば、「何かの宗教を信じていますか」という意味で使われる。
しかし、「信心」という言葉そのものは、何も宗教に限ったものではない。読んで字の通り、心で信じることだから、何かを信じていれば、その人の信心といえるだろう。
信じるとは、あて力にする、たよりにする、支えにする、ということであり、私たちは、何かを信じなければ生きてはいけない。
健康が取り柄だと自負しているのは「健康信心」、他人より金のほうが頼りになるという「金信心」、博識を力にする学者は「知識信心」といえよう。手帳に明日の予定を書き込んでいるのは、それまで生きておれると固く自分の命を信じているからである。
何を信じて生きるかは、人それぞれだが、すべての人は何らかの信心を持っているのである。
生きるということは、信じることだから、信心が要るとか要らないとかの問題ではない。問題は、何を信じて生きるか、である。
私たちは幸福になるために生きている。ならば、どんな信心が私たちを幸せにするかが大問題となるのだ。
その問題を解くには、まず、私たちの苦しみの原因を知らねばならない。私たちが苦しむのは、信じていたものに裏切られた時である。
病気の苦悩は、健康に裏切られたからであり、子供に虐待されて苦しむのは、「私の命」と信じて育てた子に裏切られたからだろう。皮肉なことに、深く信じていればいるほど、裏切られた悲嘆や怒りは大きくなる。
私たちは、本当の幸福を求めて生きているのだが、では、本当に裏切らないものを信じて、私たちは生きているであろうか。
今までどれだけ、信じ切っていたものに裏切られて、辛く悲しい思いを重ねてきたことだろう。一時として、心からの安心も満足もなく、いま手にしているものでも、いつ自分を裏切るかと、日夜、不安におののいている。
それらの実態を知られた親鸞聖人は、絶対裏切ることのない「真実の信心」を、果てしない過去から(億劫の間)ずっと、求め続けてきた。そして今、その真実の信心を獲ることができた、と仰っているのである。
「真実の信心」とは、世間でいわれるような、「動きづめで続かない、そらごとたわごと、まことのない」私たちの心で信じる「信心」とは全く異なる。
阿弥陀仏から頂いた「仏心」を、親鸞聖人は「真実の信心」と言われているのである。
お聖教にはそれを
「信心という二字をば、まことの心と読めるなり。まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。まったく仏心なり」
“「信心」という二字は、「まことの心」と読むのである。「まことの心」だから、迷った人間の心ではない。まったく阿弥陀仏の御心なのである”
と教導されている。
阿弥陀仏から真実の信心(仏心)を賜れば、決して裏切られない、絶対の幸福になれるのだ。この仏心とは南無阿弥陀仏のことである。
「真実の浄信は、億劫にも獲がたし」の聖人のお言葉は、弥陀より南無阿弥陀仏を賜って絶対の幸福に生かされ、遠い過去からの多生の目的を果たさせていただいた、感動に震える告白であることが知られよう。