真の知識との邂逅(めぐりあい)
人生には、様々な出会いと別れがある。親鸞聖人にとって、生涯最大の出会いは、恩師・法然上人とのそれであろう。
9歳から20年間、聖人は当時の仏教の中心地・比叡山で天台宗を学ばれたが、その日々は、まさに煩悩との格闘だった。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩を苦しみの元と教え、それらにどう向き合えばよいかを説く僧ばかりであったからだ。
だが、渦巻く煩悩に泣く聖人は、いかに努力しても、人生苦悩の根本解決はできなかった。やがて、吸う息吐く息に、永遠の苦患に沈む自己を知られて、居ても立ってもおれぬ不安に襲われる。もはや一刻の猶予もない。『法華経』では救われぬ。この一大事、どこかに導きくださる大徳はないのか、高僧ましまさぬかと、29才、泣き泣き下山されたのである。
そんな聖人が、「苦悩の根元・無明の闇を断ち切って、歓喜無量のいのちを与える弥陀の誓願」を説かれる法然上人に巡り会われた驚きと喜びは、余人の想像を絶するものであった。
「真の知識にあうことは
難きが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき」
"苦しみの根元は「無明の闇」である、と説く本当の仏教を教える人には、めったに会うことはできないものだなあ"
法然上人に巡り会えた感激と、苦悩の真因を知った感動を、みずみずしく詠いあげられている。
まさしく、「苦悩の根元は無明の闇」と説き切られる真の知識は雨夜の星である。
しかも、親鸞聖人にとって、法然上人との邂逅は、決して今生だけの出会いではない。遠い過去から、探し求め続けてきたものであったのだ。
「昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし」
"苦しみの根元も、それを破る弥陀の誓願のあることも、果てしない遠い過去から知らなんだ。もし、真の仏教の師に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。親鸞、危ないところを法然(源空)上人によって救われた"
弥陀の誓願を説き切られる善知識(仏教の師)との出会いとは、かくまで有り難いものなのである。
仏法は大切に求むるより聞くものなり。 (蓮如上人)
親鸞会とご縁があり、すでに親鸞会の会員となっている方も、いまだ親鸞会と縁のない方も、みなみな、この尊い仏法を聞いていただきたい。
そして、まことの光に向かって、幸せな人生を歩んでいただきたいものである。