無条件の弥陀の救い
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
(正信偈)
“釈迦がこの世に生まれられた目的は、唯一つ
阿弥陀仏の本願一つを説くためであった”
親鸞聖人の断言である。
阿弥陀仏とは、大宇宙の諸仏方が、「われらが師匠であり、先生だ」と仰がれる本師本仏の仏さまであり、本願とは、お約束のことである。
この阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は『教行信証』の冒頭に、「難度の海を度する大船」と喝破され、「大悲の願船」とも言われている。
苦しみの絶えない人生を、荒波の絶えない海に例えられ、阿弥陀仏の本願を、苦悩の海にあえぐ私たちを乗せて、極楽浄土まで渡す大きな船に例えられているのである。
人生の苦しみの波とは、欲や怒りの煩悩のことである。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、108つあるが、中でも恐ろしいのは、欲と、怒り、妬み嫉みの愚痴である。この3つを三毒の煩悩という。
朝、まだ眠いのに(睡眠欲)起き上がる。かっこよく見られたいから(名誉欲)顔を洗って鏡の前でおしゃれをする。腹が減っては戦はできぬと食事を取り(食欲)、異性の目を始終気にしながら(色欲)、バリバリ仕事をするのは、少しでも収入を多く得たいからである(財欲)。
江戸時代の作家・井原西鶴は、「人間は、欲に手足のついたる物ぞかし」と言っているが、朝から晩まで我々は、欲に動かされて生きている。しかも底無しの欲望は、あれも欲しい、これも欲しい、もっともっとと、死ぬまで満足を知らない。
この欲が邪魔されると、カーッと腹が立つ。アイツのせいで儲け損なった。コイツのせいで恥かかせられたと、怒りの炎が燃え上がる。腹を立ててもかなわぬ相手には、妬み嫉み、恨み憎しみの心がとぐろを巻く。
これら108の煩悩の塊が人間だから、「煩悩具足の凡夫」と言われている。
親鸞聖人は、そんな人間の実態をこう道破されている。
「『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」
(一念多念証文)
“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬み嫉みなどの塊である。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、
断ち切れるものでは絶対にない”
こんな煩悩具足の凡夫だから、悲しいことに私たちには、大悲の願船を見る眼もなければ、必死に呼ばれる船長・阿弥陀仏の御声を聞く耳もないのだ。
だが、そんな無眼人(むげんにん)、無耳人(むににん)と見抜かれた阿弥陀仏は、そんな者を、そのまま乗せて、必ず弥陀の浄土まで渡す大きな船を造ったのだよ、と仰せである。
「そのまま乗せる」とは、煩悩具足の人間を、ありのままの姿で絶対の幸福に救い摂る、ということである。
阿弥陀仏は、欲を減らして来いとも、腹立つ心をなくして来いとも仰っていない。大船を見る眼も聞く耳もない私たちは、自分の力で大船に近づくこともできないから、大悲の願船の方から近づいて乗せてくだされるのだ。
この無条件の弥陀の救済を、蓮如上人は『御文章』に、「あら、心得やすの安心や。また、あら、行きやすの浄土や」 と感激されている。
「絶対の幸福」は、弥陀の本願文36文字の中に「信楽(しんぎょう)」と誓われている。
救いの内容を示す、最も重要な言葉だから、「至心信楽の願」といわれている。
この「信楽」とは、死んだらどうなるのかハッキリしない、「無明の闇(後生暗い心)」が破られて、浄土往生間違いなしとハッキリした、大安心、大満足の往生一定の心である。
阿弥陀仏の本願は、無明の闇(後生暗い心)を照破し、「信楽(後生明るい心)」にする、この一点にあるのだ。
この世で絶対の幸福になれるとは、世の常識を超えているから親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を「超世の悲願」と仰り、絶対の幸福の風光を、こう和讃されている。
「超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり」
“弥陀の大悲の願船に乗せていただいてからは、もう流転の人間では
ない。
欲や怒りの絶えない煩悩具足の身(有漏の穢身)は変わらない
けれども、今が幸せ今日が満足、恨みと呪いの渦巻く人生が、浄土で
遊んでいるような気分で生かされる”
この大悲の願船に乗せていただき、「心は浄土に住み遊ぶ(絶対の幸福)」となることが「なぜ生きる」の答えである。「そのまま乗せる大悲の願船、まことだった」と疑い晴れるまで、私たちは、聞き抜かせていただかねばならない。