親鸞学徒の使命 平生の救いを明らかに
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」
(親鸞聖人)
阿弥陀仏の本願(※1)に「若不生者 不取正覚」(若し生まれさせることができなければ、仏のさとりを捨てる)と、弥陀は命を懸けて誓われているから、この世で必ず「信楽(しんぎょう)」に生まれる時が来ると、親鸞聖人は明らかにされている。「信楽」とは、いつ死んでも弥陀の浄土へ往けるとハッキリした、「往生一定(おうじょういちじょう)」の大安心をいい、「正定聚(しょうじょうじゅ)」ともいわれる。
※1……阿弥陀仏の本願とはどんなことか
弥陀の誓願は、全ての人を「信楽」の絶対の幸福に救い摂るというお約束である。それは一秒よりも短い「一念」で果たされる。平生の一念に、51段目の正定聚に救い摂ると誓われた弥陀の本願だから、弥陀の救いを「現生正定聚」と親鸞聖人は言われ、蓮如上人は「聖人一流章(※2)」で「一念発起・入正定之聚」と仰っている。これ以外、親鸞聖人90年の教えはなかったのである。
※2……聖人一流章とは
だが、この世で弥勒菩薩と同じ正定聚になれる(※3)とは、とても信じられないから、弥陀の誓願と聞いても「死後の極楽参り」程度に思っている者ばかりである。だから本願文の「若不生者」も、「死んだら極楽に生まれさせる」としか、理解できないのだ。
法然門下で親鸞聖人と首席を争った善慧房も、弥陀の救いは「死んでから」と主張した。その誤りを正されたのが、聖人三大諍論の一つ「体失不体失往生の諍論(※4)」であった。誰でも死ねば極楽往生できるのではない。死んで極楽に生まれられるのは、この世で「信楽」の心に生まれた人だけである。
※4……体失不体失往生の諍論とは
この「若不生者」の「生まれる」の真意を、親鸞聖人は『愚禿鈔』で
「本願を信受するは、前念命終なり。即ち正定聚の数に入る。
即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。
また必定の菩薩と名くるなり。」
と鮮明にされている。
〝本願まことだった〟と信受する一念で、後生暗い心が死ぬ(前念命終)と同時に、往生一定の「信楽」に生まれる(後念即生)。弥陀が「若不生者」と全精力を傾注なされたのは、心のことだと、懇ろに教示されている。
心の臨終と誕生を知らねば、弥陀の本願は絶対に分からない。親鸞聖人は法友と争いまでなされて、この世で救われる「不体失往生」「平生業成(※5)」が弥陀の願意と、明らかにしてくださったのである。
※5……平生業成とは
だが800年たった今日も、「死んだらお助け」が常識になっている。この根深い迷信を打ち破らねばならないのが、親鸞学徒である。常に親鸞学徒が説くべきは平生業成の弥陀の本願、ただ一つ。明らかにしなければならないのは、この外にないのである。