釈迦一代の教えは 弥陀の方便の善なり
「凡そ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」
(親鸞聖人・一念多念証文)
「八万四千の法門」とは釈迦一代の教え、仏教をいう。それは七千余巻の膨大な一切経に書き残されている。その教えは、万人に「後生の一大事」が厳存することと、その「解決方法」の二つである。ゆえに仏教は、後生の一大事に始まり、その解決で終わるのだ。
後生の一大事とは何か。
いやじゃ、いやじゃと言いながら万人は死に向かって行進している。死ねば後生だと仏教で説く。死んだ後はどうなるか。蓮如上人はズバリ、後生の一大事を明示されている。
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」(御文章)
"後生とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことをいう。だから急いでこの一大事解決のために、阿弥陀仏の救いを求めねばならない"
この後生の一大事が知らされるところから仏教は始まるのである。
だが現実には、一大事の後生に驚く人は皆無といっていい。
後生なんてあるの?永眠というから、死は眠るようなものだろう。死ねば一大事が起きるなんて到底思えない、という人ばかりである。
かかる人々に、後生の一大事を知らせんがためにお釈迦さまは、一切経を説かねばならなかったのだ。
まず、宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の道理を説き、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧められる。
そのうえで、因果の道理は三世を貫くことを明かし、「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」。後生(未来の果)どうなるか知りたければ、現在の自己の姿を凝視せよ、と説示される。
真実の自己とは、いかなるものか。殺生(生き物を殺すこと)一つとっても我々は、日々限りない悪を積み重ねている。まさに「罪悪深重」と言われるとおりであろう。
これらが知らされて初めて、悪因悪果、自因自果の後生の一大事に驚き、その解決を求めるようになるのだ。
しかも一大事の後生の解決は、本師本仏の阿弥陀仏のお力によらなければ絶対にできないことであるから、釈迦は仏教の結論として、
「一向専念無量寿仏」(阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏のみを信じよ)
と断言されている。
その弥陀の十八願の救いに導かんがための、釈迦の教えが「八万四千の法門」になったのだ。しかもそれは、釈迦の独断ではない。弥陀が、十方衆生を絶対の幸福に救う十八願に導かんがために建てられた、十九願で誓われた「浄土(弥陀)の方便の善」だと、親鸞聖人が教えられているご金言である。