自由と平等
人類は何時の世も、幸福を求めてきた。幸福とは何かといえば、ざっくり割ってしまえば、自由と平等ということになろう。
「われに自由を与えよ、しからずんば死を」と叫んだのは、アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリである。この言葉は、「自由は鮮血をもって買わざるべからず」と続くが、事実、アメリカが独立するまでには、イギリスとの8年間の戦争で、おびただしい鮮血が流された。
それほどまでに、人は束縛を逃れ、自由を欲するのである。
だが一方で我々は、平等でありたいとも願っている。「勝ち組」「負け組」などと言われる昨今の格差社会は我慢がならず、かつての「一億総中流」が懐かしい、との声をよく聞く。
ところが、この自由と平等とは、
真っ向から衝突する。自由の追求は必ず不平等を生み、平等ならんとすれば、自由は制限される。
人類の歴史は、この2つを求めつつ、ある時は自由を謳歌し、ある時は平等に安らぎ、狭間を揺れながら人々は生きてきた。
20世紀には、それがついにイデオロギーの決定的な対立となって、世界を2分する米ソ冷戦時代も経験した。富を平等に再分配することで、皆幸せになれるとした共産主義の理想は、人間の欲望の否定となり、ソ連経済は破綻、国家も崩壊した。
その結果、アメリカ中心のグローバル自由市場経済なるものが、大手を振っていたのだが、その本家のアメリカが今や青息吐息で、金融危機が世界に波及している。自由とはすなわち、欲望の無制限な解放にもなる。時にそれは、手がつけられないほどの暴走を生む。一体、幸せはどこにあるのか。まことに、人の世は難しいものである。
では、弥陀に救われたらどうなるか。欲や怒りの煩悩はなくなるのか。なくならないとすれば、どこがどう変わるのか。
万人の問いに、親鸞聖人は『正信偈』の4行で、こう明らかにされている。
「能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
"阿弥陀仏のお力によって、一念に他力の信心が発起すれば、煩悩は変わらないままで、絶対の幸福になれる。万川(衆水)が海に流れ込むと、塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も、五逆(親殺し)の罪人も、仏法を謗っている大悪人も、平等一味になれるのだ"
完全なる自由と平等の世界があるのだよ、との驚くべき親鸞聖人のメッセージだ。
まさに、無碍の一道なのである。