徒にすぐる月日の多い私たちと宿善
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
(御文章)
「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただ、この信心一に限れり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」 (御文章)
蓮如上人は、「弥陀の救いは信心一つ」であると生涯教えていかれたのが親鸞聖人であることを明示され、これを知らない者は親鸞学徒ではないと断言し、こう遺言なされている。
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに、宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文章)
その「信心決定」の身になるのは、全く「宿善まかせ」と明言し、信心決定に如何に「宿善」が大切かを教え、こうまで仰っている。
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり」 (御一代記聞書)
と真剣な聞法を勧めていられる。
その上で善知識方は、
"いたずらに すぐる月日は多けれど 法を求むるときぞ少なき" 私たちに、日常生活上の大事な心がけを明かされている。
「宿善の厚きものは、今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少きものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず」
と『唯信鈔』には教戒し、
『末灯抄』に親鸞聖人は、
『「悪をこのまん人には慎みて遠ざかれ、近づくべからず」とこそ説かれて候え。「善知識・同行には親しみ近づけ」とこそ説きおかれて候え』
と教授されている。
蓮如上人は、これを『御文章』に、
「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」
と教導されている。
いずれも光に向っての生活が、即求道の大切さを教えられたものだが、悪を慎み善に向こうことを疎かにして、闇に向かって走る者は決して親鸞学徒でないことを知らなければならない。