「仕事やめても聞くべきは仏法」と、なぜ言われたか
阿弥陀仏の本願は、「どんな人も、必ず絶対の幸福に救い摂り、浄土に往生させる」というお約束です。
この世は絶対の幸福、来世は極楽浄土で弥陀同体の仏のさとりをひらくという現当二益が、弥陀の救いなのです。
ではどうすれば、その身に救われるのでしょうか。「聞く一つで」と、弥陀は誓われています。
それを釈迦も、親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」と教えられています。弥陀の救いは「聞く一つ」で完成しますから、真剣な聞法こそ肝要なのです。
その心構えを、釈迦は『大無量寿経』に、こう説かれています。
「設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽す」
(たとえ大宇宙が火の海になっても、そこをくぐり抜いて、弥陀の本願を聞く人は、必ず絶対の幸福に救われるのである)
親鸞聖人も、全く同様のことを和讃にされています。
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞く人は
永く不退にかなうなり」(浄土和讃)
蓮如上人は、この覚悟を具体的に、
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事、浅ましきことなり」(御一代記聞書)と教えられています。
蓮如上人が「世間の隙」と言われているのは、世渡りの仕事のことです。仕事をやめても聞かねばならぬのが仏法だ、それを仕事の合間に聞けばよかろうなどと思っているのは、仏法が分かっていないのである、と仰っています。
仕事こそ人生、と思っている人には、全く理解できないお言葉でしょう。「仕事を捨てたら、どうやって食べていくのだ。無茶なこと言うな」の反論が聞こえてきます。
だが、深く考えてみると、どれだけ仕事をして食べていても、人は必ず死ぬのです。食べ物がないから死ぬのではありません。食料を残しながらも死んでいくのです。
しかもそれは、「今日とも知らず、明日とも知らず」。
100パーセント死なねばならないのに、皆、生きることで頭がいっぱい、「生き方」しか考えていないのです。
どれだけ仕事をすれば、安心できるのか。満足するのでしょうか。限りない欲望を満たそうと、限りある命を今日も擦り減らしています。
命が尽きたら、どこへ旅立つつもりなのでしょうか。「仏法に明日はない」と言われます。この後生の一大事に驚いて、今、「弥陀の本願まことだった」と聞きひらき、往生一定の身になりましょう。
「ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん」(真宗宗歌)
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