本願寺門主「最後のメッセージ」
平成26年3月、本願寺の門主・大谷光真氏が、新著『いまを生かされて』を出版した。帯には、「門主・最後のメッセージ」と謳っている。
6月に門主を退任する予定の同氏が、いわば最後に言い残したいことなのであろう。
その中に、注目すべき発言がある。名文として有名な『歎異抄』2章の、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず」のところを、
「阿弥陀如来の本願がまことであるから、釈迦如来が説かれたことは嘘ではない」
「阿弥陀如来の本願がまことであるから、釈迦如来はそれを説かれたのだ」
と二度も繰り返し解説されている。
従来『歎異抄』解説書のほとんどは、この箇所を「阿弥陀如来の本願が、まことであるとするならば」と仮定で解釈されてきた。
一例を挙げれば、本願寺の勧学である梯實圓氏の『歎異抄』でも、「弥陀の本願がまことであらせられるならば」としている。
だが、親鸞聖人には、弥陀の本願以外に、この世にまことはなかった。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)
“まことだった、弥陀の本願、嘘ではなかった”
の親鸞聖人のお叫びや、
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(歎異抄後序)
“火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ”
と、「本願まこと」の聖人の大音は常に響流している。
「弥陀の本願のみぞまこと」が親鸞聖人の原点であり、著作の全ては「本願まこと」の讃嘆で満ちている。
弥陀の本願と直結された聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがない。「本願がまことであるならば」の仮定は、親鸞聖人の教えの根本的な破壊になってしまう。
数ある『歎異抄』の誤解の中でも、これが最大の誤謬であった。
今回、門主自身が、その誤解を翻して「弥陀の本願がまことであるから」と断定されている意義は、極めて大きい。
本派本願寺の最高責任者が明記したものだから、勧学を始め、全国の僧侶も門徒も従わなければならないだろう。
他の真宗十派や、親鸞聖人を研究する人たちにも、少なからぬ影響を与えよう。
「最後のメッセージ」にふさわしい、勇気ある門主の発言に賛辞を贈りたい。
マンガ『歎異抄をひらく』の衝撃度3 「弥陀の本願まこと」の巻