弥陀の19の願意
阿弥陀仏が十方衆生を十八願の世界まで導くために建てられた十九の願意を開顕するために、釈迦は生涯、因果の道理から「廃悪修善」を説かれている。
「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
不幸や災難を厭うから悪を慎み(廃悪)、幸福を求め善に励む(修善)ようになるのだ。
釈尊が八十年の生涯、徹底して教えられた「因果の道理」の結論は「廃悪修善」だから、仏法は「廃悪修善」の四字に収まる。
それは、こんな話にも表れている。
昔、中国に、何時も樹上で坐禅瞑想している鳥〓という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、その下を通りかかり、ひやかし気分になった。
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては危ないではないか」
鳥〓すかさず、「貴殿こそ、危ないぞ」と切り返す。
これは相当の坊主かもしれぬと見て名を尋ねると、高僧で聞こえた鳥〓禅師ではないか。
かねて仏法に関心を持っていた白楽天は、
「いい所で貴僧に会った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でお聞きしたい」と頭を下げた。
即座に鳥〓は、「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」と答える。
白楽天いささかあきれて、「そんなことなら、三歳の子供でも知っているではないか」と冷笑すると、鳥〓すかさず、「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と大喝した。
「仏教イコール廃悪修善」と聞くと、「仏教といっても、倫理や道徳に毛が生えたようなものじゃないか」と、白楽天のように見下げる者が多い。
だが、知るのは易しいが、実行するのは難中の難事である。
「悪業をば恐れながらすなわち起し、善根をばあらませども得ること能わざる凡夫なり」(口伝鈔)
悪と分かっていながら、やめられないのが人間の本性である。
真剣に善をしようと努めると、まことの善のできない姿が知らされる。
仏さま相手に聞法求道された聖人は、本当の自己を照破され、
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
極悪人の親鸞は、地獄しか行き場がないと告白されている。
この悲痛な懺悔は、「知った」「分かった」の分際とは、全くケタが違うのである。
※〓……穴かんむりに「果」