浄土真宗の肝要は一念往生
末期ガンで余命1カ月と宣告されて、「それならもう死にます」という人はいないだろう。絶対治らないと分かっていても、患者は生きようとするし、医師は延命に力を尽くす。必ず死ぬのに、なぜ生きる。また、なぜ生かすのか。誰しもが直面する問題である。
その答えを明示された親鸞聖人の教えを、漢字4字で「平生業成(へいぜいごうじょう)」と言われる。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」、その完成を「成」と言われている。だから「平生業成」とは、生きている現在、人生の目的が完成することである。
しかもその達成は、何兆分の1秒よりも速い「一念」でなされることを、聖人は
「『一念』とは、これ信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時尅の極促を顕す」
(教行信証信巻)
阿弥陀仏は、「どんな人も一念で信楽(絶対の幸福)に救う」と、命を懸けて約束なされている。なぜ一念で救う本願(お約束)を建てられたのか、覚如上人は、こう明かされる。
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
(口伝鈔)
“阿弥陀如来の本願は、臨終目前の、最も短命の人を救うことに焦点をあてられている。もし3秒かかるような救いでは、1秒しか命のない人は助からない。一念の救いこそが、弥陀の本願の最も大事な特徴なのだ”
弥陀の救いのお目当ては、まさに死なんとする人である。すべての人を救うには、あと一刹那に臨終の迫った、最悪の状況にいる人に主眼を置かなければならない。だから弥陀は、十方衆生(すべての人)を救うために、一念で助けると誓われたのである。
そんな一念の救い(一念往生)は、大宇宙で弥陀の本願にしかないから、覚如上人は「肝要」であり「淵源」だと言われている。仏法で「要」といわれる教えは幾つかあるが、「肝要」は一つしかない。「肝要」も「淵源」も、仏教で最も大事なことを表す言葉である。
弥陀の救いは一念だから、手遅れということは絶対にない。「あと1カ月の命では、もう無理だろう」と思うのは、一念往生の弥陀の本願力不思議を知らないからである。
永久の幸福に救い摂られるチャンスは、最後の一息まで尽きない。弥陀の命を懸けたお約束がましますから、必ず出世の本懐を遂げさせていただけるのである。