弥陀の誓願不思議
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(歎異抄一章)
〔意訳〕
“すべての衆生を救う”不思議な阿弥陀如来の誓願の力によって救われ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
哲学者・西田幾多郎は、「いっさいの書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」と言い、作家・倉田百三は「国宝級の名文」と称した『歎異抄』。
親鸞聖人のお言葉として人口に膾炙しているが、その全18章は第1章におさまり、1章はまた、冒頭のこの一文におさまると言って過言ではない。
ここで聖人は、不可称不可説不可思議の弥陀の救いの一念を、流れるように美しく語られている。
「弥陀の誓願」といっても、“死後の極楽参り”か、ぐらいに考えている人ばかりだが、親鸞聖人が「弥陀の誓願不思議に助けられた」と仰っているのは、もちろん死んでからではない。弥陀の救いは、生きている“今”である、との明言である。
それは、どんな救いなのか。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」
と言われているのは、いつ死んでも極楽往生間違いなしとハッキリした、ということである。
この「信じて」を、ほとんどの歎異抄解説書が誤解する。これは一般にいわれるような、「明日は晴れると信じる」とか「彼は必ず約束を果たすと信じている」というように、「疑いがあるから信じる」信じ方とは全く違う。疑う余地なく、明らかに知らされたことを「信じて」と言われているのである。
火に触って大やけどした人が、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。「火は熱いと知っている」と言うだろう。疑いがなければ、信ずる必要はないからである。
親鸞聖人は、浄土往生に微塵の疑いもなくなったことを、鮮やかに次のように表明されている。
「真に知んぬ。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証信巻)
〔意訳〕
弥陀に救われた念仏の人は、この世の命が終わると同時に、仏のさとりをひらくのである。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」は、まさしくこの「真知」のことなのだ。
しかも、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と、平生の一念に、ガチッと摂め取って永遠に捨てぬ「絶対の幸福」に救われるのだと断言なされている。
弥陀の救いは、いつとはなしではない。あっという間もない時尅の極促の一念であり、水際立つものなのだ。
言葉にかからず、想像すらできない不思議な弥陀の救いを、どうお伝えしたらよかろうかと、親鸞聖人が、いろいろな角度からご教示くだされているのが、1章冒頭の、この一節である。
親鸞学徒なら、いつでも暗唱できるようにしておきたい名文であろう。