本当の人生の目的を知らないから、迷う
人は、生まれた時に、大海の真ん中に放り出されたようなもの。水と空しか見えない海で、さあ、あなたはどうしますか?
なんと、とてつもなく大きな問いかけでしょう。しかし全人類は、この難問に待ったなしの回答を迫られています。
無論、泳がなかったら死んでしまいますから泳ぐしかありませんが、闇雲に泳ぐだけでは、体力を早く消耗して土左衛門になるだけです。
では、どこへ向かって泳ぐのでしょうか。
助かるためには、一刻も早く、島か船を見つけ、そこを目がけて全力で泳がなければならないはずなのに、誰もそれに気づきません。
政治、経済、科学、医学、芸術、倫理、道徳、スポーツ、金、地位、名誉、財産、家族などなど、これらを人生の目的のように心得て、今も無我夢中に生きています。
「それは趣味や生きがいと言われるものであって、人生の目的ではありませんよ」といくら叫んでも、聞く耳さえ持たないのです。
なぜ、人生の目的といえないのでしょうか。どれだけやっても、これで大満足だ、生まれてよかった、という生命の歓喜がないからです。
日本の政治を例に取ると、縄文、弥生、卑弥呼の時代を経て、平安の貴族政治、鎌倉以来の武家政治、明治維新から今日の民主政治に至るまで、変化はしましたが、政治形態にこれで完成したということはありません。
それでも進歩はしたはずだ、と思いたいところですが、人間の苦しみは全く変わっていないどころか、昨今の生きづらさ、自殺者数を思えば、むしろ増えているのではないかとさえ思われます。
生活を格段に便利にした科学も、心を幸福にはしてくれませんでした。
医学は延命を目的としますが、生そのものが苦しみだけなら、延命は悪魔の所業になってしまいます。
かくて人生は、ゴールなき円周上のマラソンと同じになってしまうでしょう。
来る日も来る日も、「食て寝て起きて糞たれて、子は親となる、子は親となる」を繰り返し、「娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく」で一生を終えていく。矢尽き、刀折れ、悪戦苦闘の人生の果てには、最も忌み嫌う死が待っています。
この厳粛な死をごまかす者は、人生そのものをごまかして生きる者です。
生死の一大事をあきらかに見て、解決し、「よくぞ人間に生まれたものぞ」の生命の歓喜を獲ることこそが、人生の目的ではないでしょうか。
趣味や生きがいは、生きる手段ですが、本当の人生の目的を知らないから、これらを目的と見誤ってしまうのです。
親鸞会館では、その人生の目的をあきらかにされた、親鸞聖人の教えが説かれています。本当の人生の目的を知れば、真に明るくたくましい人生が開かれるのです。